札幌市は街を「スイーツ王国さっぽろ」と位置付け、毎年「さっぽろスイーツグランプリ」を開催するほどスイーツに力を入れています。そんなスイーツ王国である札幌の市民でも知っている人がとても少ない、明治生まれの「和スイーツ」があります。それが、JR札幌駅構内でのみ限定販売されている「柳もち」です。
柳もちとは、元々は餅を餡子でくるんだ金沢名物の「あんころ餅」の事。今年(2016年)で何と販売開始から110年! とても歴史ある生菓子なんです。現在は製造する数がとても少ないため、お昼前に売り切れてしまうことも多いんだとか。そんな知る人ぞ知る「柳もち」の発売当初の歴史やこれまでの変遷について、製造元の洲崎昭光社長(創業者のひ孫)と、まち文化に詳しいまち文化研究所・塚田敏信氏に色々とお聞きしました。
柳もち誕生のきっかけとその歴史に迫る
柳もちは、札幌駅立売商会の前身のひとつ、北間屋(きたまや)が明治39(1906)年に創製。金沢出身の創業者洲崎庄次郎氏が、故郷の銘菓である「あんころ餅」を札幌の地で再現したのが、その始まりです。
塚田氏にお聞きしたところ、実は金沢駅では昔「柳餅」という同じ呼び名のあんころ餅も売られていたそうです。一度消え、塚田氏が金沢に行った時は別の業者が「金沢駅開業100周年」記念で復活させていたそうですが、その後また無くなったとか。
今日現在、もし再復活してないとしたら、札幌駅の「柳もち」は、生誕の地では消えながら、移住先の札幌で生き残るという極めて希少な存在といえます。そして金沢近辺では、現在でも色々な製造業者が、あんころ餅を販売しています。元々金沢では、夏の土用の入りの日にあんころ餅を食べる風習があったそうで、現在でも金沢名物として有名です。
▼作業現場
▼昭和期の立売
▼大正期の弁当屋
明治から昭和初期時代、札幌駅構内では何人もの業者が餅やまんじゅう、羊羹、札幌最中など、さまざまな「生菓子」を販売していました。甘いものが貴重だったこの時代、生菓子は弁当に劣らぬ人気商品だったのです。
塚田氏によると、札幌駅で売られたものとして長く続いたのは「柳もち」の他に「苺もち」という人気商品があったそうです。これは今でいう「すあま」のこと。残念ながら、苺もちは昭和50年代で消え、すでに販売しておらず、札幌駅で現在まで残っている生菓子は「柳もち」だけとか。
昭和18年(1943年)、戦時中の企業統制により業者たちはひとつに統合され、「札幌駅構内立売商会」が設立されました。この名称は、駅のホームで売り子が弁当などを売ることを「立売り」と呼んだことからつけられたもの。これにより、柳もちも札幌駅構内立売商会の商品となったわけです。
「柳もち」が「駅弁」である理由
ところで、不思議なことに昔も現在も「駅弁」というジャンルの中に柳もちがラインナップされています。なぜ甘いものも「駅弁」として扱われているのでしょうか。
そんな素朴な疑問を塚田氏に伺うと、「駅弁として売ったというより、駅のホームで立売販売していたのはご飯ものだけでなかった、というだけのことです。お腹を満たすのはご飯ものだけでありません。ちょっと小腹を満たすには『餅・饅頭・団子』あたりがよかったでしょうし、土産にもなりました。キャラメルや最中などの菓子類や果物、新聞などいろいろ販売する業者がいて、その中で北間屋は『柳もち』も売っていたということです。それぞれ専門分野を棲み分けながら、業者が何人も立売していたのです。現在、キヨスクでいろんなものを売っているのと同じですね」。なるほどなぁ、と納得しました。
【ちょっとブレイク】レトロポップな包装紙イラストも可愛い!
柳もちを買うとまず目に付くのが、包装紙に描かれているレトロポップなイラストです。明治時代の誕生時から何度か変遷を経て、現在のものになりました。現在の可愛いイラストは、夕張出身のイラストレーター・渡辺俊博氏が描いたものだそうです。
渡辺さんと柳もちの包装紙の関係について、洲崎社長にお聞きしました。「正確には覚えていませんが、2002年か2003年に、旅行雑誌じゃらんの当時の編集長ヒロ・中田さんに柳もちの存在を知ってもらい、当時の掛け紙がおとなしくてインパクトが無いとのアドバイスを頂き、渡辺さんをご紹介いただきました」との事でした。意外なキッカケだったんですね。
ちなみに塚田氏は、大正末期から昭和初期に使われた「柳もち」の手描き感のある掛け紙(のし)の
デザインがとても好きだそうです。
そういえば、塚田氏の本にこんな言葉がありました。「包装紙などのデザインはお菓子の味わいを一層増してくれる『夢の舞台装置』でもあるのだ」(塚田敏信著「ほっかいどうお菓子グラフィティー」より)。……共感しきりです。
全盛期には1日1500折の販売記録も! そんな柳もちを試食してみました
昭和20年代までの「全盛期」には、柳もちは絶大な人気を誇っていたそうです。近隣の町や村からも沢山の人が集まる6月中旬の札幌まつり(北海道神宮例大祭)の期間は、1日になんと1500折以上(!) も売れたとのこと。その人気ぶりがこのエピソードからも充分うかがえます。
そして柳もちは札幌駅構内の駅弁売店「弁菜亭」で現在も変わらずに販売されています。「もし、柳もちを単体の店でやり続けていたら、採算を考えた時にやめていたでしょう。札幌駅立売商会という中で一緒にやってるから、今日まで残ったといえます」。そうコメントされたのは、現社長の父で当時専務だった洲崎昭圭さんです。現社長の洲崎昭光氏も「柳もち」に関して、「売れる売れないではなく、札幌駅立売商会の歴史を語るものだから大事にしたい」とおっしゃっています。
明治・昭和初期から、多くの方々が食してきた柳もち。ふと、その時代にタイムスリップした気分で食べてみたくなりました。折角ですので、試食してみたいと思います。
折り箱に入った餅は、10個入り。手のひらに収まる可愛い一口サイズになっていて、お子様や女性でも食べやすくなってます。食感ですが、粘りとコシがあって丁度良い歯ごたえです。餡の甘みも絶妙で甘すぎずサッパリしていて美味。そして、餅米特有のふわっとした甘みと柔らかさもたまりません。この味の秘訣は、固くなりにくい道産のはくちょう米を使った餅と艶のある十勝産の小豆餡です。こだわりの北海道産素材が活かされているのですね。
明治時代の札幌駅弁事情と柳もちについて
最後に、柳もち誕生の前後の札幌エリアの「駅弁」事情を少し見てみましょう。
明治13年(1881年)、札幌と小樽・手宮間に、北海道で最初の鉄道が開通しました。ちなみにこの時、銭函駅のホ-ムで立ち売りされたのが「甘酒饅頭」(※現在の酒饅頭)だそうで、これが北海道の駅弁第一号と言われています。札幌駅で駅弁が初登場したのは明治23年(1890年)ですので、甘酒饅頭から10年後です。
現在の札幌市内にあたる駅で「駅弁」的なものをその時代に出していたのは札幌駅と、定鉄の定山渓駅くらいでした。そして駅弁的に売られた中に、「ご飯もの」と「駅生」がありました。「駅生」というのは、駅で駅弁とおなじように販売された「柳もち」のような生菓子のことを指す、塚田氏の造語です。ご飯ものと区別して使うためにその表現を作ったそうです。
そして、遅れること明治39年(1906年)、「柳もち」が誕生したのです。その当時の「柳もち」の値段は、昭和の戦前期にかけてまでは1折15銭だったそうです(現在は600円)。その数字を聞いただけで、1世紀以上に亘る札幌での柳もちの歴史が伝わってくるようです。
2016年、満110歳を迎えた「柳もち」。明治から平成まで生き続けたその歴史の一端を垣間見た気がします。柳もちは、札幌開拓時代からの歴史と共に歩んできた、札幌生まれのお菓子の中でも最も貴重な銘菓と言っても過言ではありません。札幌市民のみならず道産子全体、そして全国の方々にも味わっていただきたい、知ってもらいたい……そんな自慢の札幌銘菓です。是非一度ご賞味下さい!
<取材・資料協力>
株式会社札幌駅立売商会 洲崎昭光氏(創業明治32年、札幌市東区北8条東2丁目1番35号、公式サイト)/まち文化研究所 塚田敏信氏
<提供写真協力>
株式会社札幌駅立売商会 洲崎昭光氏
<参考資料>
『ほっかいどうお菓子グラフィティー』(亜璃西社)/
『札幌人』/
札幌駅立売商会公式サイト、ほか