北海道八大景勝地ってどこ?選定した大町桂月は層雲峡の命名者だった!

「北海道八大勝地」という言葉をご存知でしょうか。北海道の8つの美しい景勝地を選定したものですが、一般にはあまり知られていません。それもそのはず、大正時代の文学者が冊子の中で発表したもので、一世紀近く経過しているからです。

その文学者の名は、大町桂月(おおまちけいげつ)。北海道八大景勝地とはどこを指すのでしょうか。調べていくと、この人物は、あの観光地の命名にも関わったすごい人だったのです。

北海道各地を旅した文学者にして登山家

大町桂月は、1869年に高知県で生まれた詩人、歌人、随筆家。大正時代には登山家としての一面をもち、北海道各地を旅行しその魅力を発信しました。

その度の集大成として、『太陽』1923年6月増刊号「日本山水大観」巻頭の「北海道山水の大観」で、北海道の八大景勝地を紹介しました。それによると、次の8つが素晴らしいと絶賛しています。

  1. 大雪山
  2. 層雲峡
  3. 阿寒嶽
  4. 登別温泉
  5. 蝦夷富士(羊蹄山)
  6. 大沼公園
  7. サロマ湖
  8. 野付半島

原文は下記のとおりです。

余は茲に大雪山、層雲峡、阿寒嶽、登別温泉、蝦夷富士、大沼公園、猿間湖、野付半島を以て、北海道の八大勝景となさむとす。大沼公園、蝦夷富士、登別温泉は北海道の西部、大雪山、層雲峡は中部、阿寒嶽、猿間湖、野付半島は東部にあり。この八大勝景を探るにつれて足跡もほゞ北海道にあまねかるべき也。(「北海道山水の大観」より)

桂月が北海道の道央、道北、道東を訪ねたのは1921年の約5ヵ月。同年12月には、「北海道には内地に見られぬ奇景少なからず候」と記した上で、大雪山、サロマ湖、野付半島、阿寒をもって「北海道四大勝地」としました。翌1922年には道南も訪問し、前述の「北海道八大勝地」を発表しました。

大雪山を実際に登山! 層雲峡と羽衣の滝の名付け親だった!?

大町桂月は1921年8月に旭川、上川市街を経由して層雲峡を訪問(旭川では嵐山を命名)。当時「霊山碧水峡」と呼んでいた、石狩川上流の渓谷について、アイヌ語「ソウンペッ(滝のある川)」にちなむ双雲別川をヒントに「層雲峡」と命名しました。

当時まだ知名度のない層雲峡で塩谷温泉を営んでいた塩谷忠が、全国的に名の知られていた桂月を呼んで命名させたと言われています。“誘致”のおかげもあって、桂月は『層雲峡より大雪山へ』で「層雲峡は未だ世に知られざるが、天下の絶勝也」など、複数回「層雲峡」を用いて紹介しています。層雲閣グランドホテルによれば、この時、大函、小函、銀河の滝、流星の滝、蓬莱岩、同ホテル名の命名にも関わったとしています。

▼層雲峡の滝

その後、桂月は層雲峡から大雪山系を縦走し、大雪山系黒岳の近くにあった無名の山に登頂しました。この山は塩谷の提案で、桂月の名を付した桂月岳(標高1938m)となりました。縦走は22日から25日までかかり、天人峡温泉に至ったとしています。

桂月は大雪山について「富士山に登って山の高さを語れ 大雪山に登って山岳の大きさを語れ」との有名な言葉を残しており、「偉大にして変化に富める」山だと評しています。

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▼大雪山系を縦走したが、倍以上の時間をかけたため行方不明としてニュース沙汰になった

天人峡の羽衣の滝は、明治時代に発見されて以降「夫婦滝」と呼ばれていましたが、「半頃より左に近く羽衣の瀧を見る。下りて見上ぐれば、高い哉。八十丈と称す。直下せずして、曲折するが、日光の華厳瀧よりは遙かに高き也。……千丈の懸崖雲上に連なり、懸崖欠くる処飛泉を掛く、相看てただ誦す謫仙の句、疑ふらくは是れ銀河の九天より落つるかと」と記録し、「羽衣の滝」と命名されることになったそうです(命名年については1918年との記録もあり、真相は不明)。

▼天人峡の羽衣の滝の命名に関わったと伝えられている

この一連の旅について彼は同年、中央公論にて『層雲峡から大雪山へ』を発表し、大雪山と層雲峡が全国に知れ渡ることとなりました。層雲峡園地には、大町桂月の足跡を偲んで石碑が建立されています。

その後の足跡

大町桂月は旭川のあと網走方面を訪れ、9月3日に現在の北見市常呂のサロマ湖畔にあるワッカに至ります。「一方は湖水の静かな波、一方はオコツク海の荒浪を左右に見くらべつゝ、果ても知れぬ狭き洲を行けば、唯々人界を離れて、龍宮に旅するかとのみ思はれ申候。天の橋立などは、とても比較になり申さず候」とサロマ湖について述べています。

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▼サロマ湖の砂州、龍宮街道は彼が命名した

天橋立にも似た砂州の部分について、まだ名前がなかったので、龍宮に続く道のようであることから「龍宮の通路」と命名したと記録しています。

<歌碑>
奇花異草天空に接す
馬跡輪痕川の字に通る
百里の狭洲波浪の裡
恍然として疑う是龍宮に到るかと

その後、遠軽、留辺蘂、北見(当時は野付牛)、池田、釧路を経由し根室へ。船で別海町尾岱沼まで行き、野付半島は水深が浅くて動力船で移動できないので小さな船で移動しました。湾内に北海シマエビが多く生息していることを確認し、「発動船及ばぬ入江えび躍る」と記録しています。

▼野付半島

この野付半島の景観について「三保半島の長さは一里なるが、野付半島の長さは五里もあり」と三保の松原と比較して記述しています。また、サロマ湖の龍宮街道同様、半島の森林や湾の美しさから「北海の天橋立」と呼んだともされています。

また「その眺望は、世にも雄大を極む。後は茫漠たる根室平原にて、奥に斜里岳骨立し、左は知床半島の連峯長く海に伸び、右は納沙布半島の丘陵長く海に伸ぶ。前は野付湾の彼方に野付半島横はる……海峡の彼方には、千島の最南端なる国後の山嶽、神の山かとも思われて、蒼海に雄視す。四面どちらを見ても、晴れやかにして、心いく處也」と、知床連山や根室半島、北方領土の国後島を背後に望む景観を絶賛しています。

釧路に戻ってから、屈斜路湖、川湯と硫黄山、10月に入ると阿寒湖を訪ねました。屈斜路湖ではアイヌ語でヲヤコツやワッコチと呼ばれていた和琴半島の名付け親(漢字をあてた)になっているほか、湖岸には桂月の湯と呼ばれる野湯もあります。

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▼屈斜路湖の和琴半島の漢字を考えたのは桂月

阿寒湖ではマリモを見学したほか雌阿寒岳を登山し、湖畔を散策しています。『日本山水紀行』の「阿寒嶽」で彼は「東北海道にて名山を求むれば、先ず阿寒嶽なるべし」と評したほか、天然記念物に指定されたばかりのマリモがある阿寒湖について触れています。

雌阿寒岳登山をしてみた

▼阿寒の山

その後は小樽、積丹、余市を経て函館に到達しました。翌年には駒ヶ岳と羊蹄山を登山しに北海道に来ています。

▼駒ヶ岳を望む大沼公園は新日本三景にも選ばれた絶景

▼蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山

登別温泉も訪れている

このように大町桂月は、汽車、船、馬しか移動手段がない時代に北海道を大移動し、北海道の山水の多くを巡りました。今わたしたちが使っている地名の中には、彼が命名したものがあることもわかりました。

大町桂月が観た山岳や湖沼、半島といった自然景観は、今のわたしたちも観ることができます。100年前はどうだったのかという視点で8つの景勝地を巡ってみてはいかがでしょうか。

大町桂月が命名したとされる地名の例

・嵐山(旭川市)
・層雲峡(上川管内上川町)
・大函・小函(同)
・銀河の滝・流星の滝(同)
・蓬莱岩(同)
・羽衣の滝(上川管内東川町)
・龍宮街道(オホーツク管内湧別町・北見市)
・和琴半島(釧路管内弟子屈町)

参考文献:『大町桂月の大雪山』、『桂月全集』、『桂月全集別巻』、北見市史編さんニュース『ヌプンケシ』