開拓使のシンボルはなぜ五稜星になったの?知られざる北辰旗の歴史

サッポロビール博物館、札幌開拓使麦酒醸造所、札幌市時計台、北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)、豊平館、清華亭、北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園の博物館本館。

明治初期に建築されたいくつかの歴史的建造物には決まって、あるマークが刻まれています。それが「★」のマークです。これは、開拓使がシンボルマークとした赤い星、「五稜星」がルーツです。シンプルながら印象的なそのデザインは、今でも北海道のあちこちに残されており、さらには北海道の道旗・道章のデザインのもとになりました。

なぜ五稜星になったのでしょうか。本稿では、五稜星マークの誕生の経緯、幻の七稜星の話、そして現在の北海道旗デザインに至る歴史を振り返ります。

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開拓使旗(北辰旗)の五稜星は、五稜郭がヒントに?

明治時代になり1869年に北海道開拓使が設置されると、陸路が未整備の北海道開拓に当たり、本州と北海道とを結ぶ海運の強化が急務とされました。そこで開拓使は、外国製の輸送船を導入し、安定した輸送手段を確保しようとしました。

開拓使所属の外国形輸送船が増えると、太政官(だいじょうかん)は布告第五十七号『郵船商船規則』(1870年(明治3年)1月27日)で、「外国形輸送船には国旗と省府藩旗を掲げること」が定められました。

1872年(明治5年)1月、蛭子末次郎(えびこすえじろう)は開拓次官(この時点で事情により事実上開拓使トップ)黒田清隆の命令により、開拓使に下記の「北海道旗章立置方、伺」を提出しました。これが、北海道の記録上初めて登場する五稜星です。

「今般 樺太運送御用御取運被遊候ニ就テハ御軍艦諸廻漕船区別ノ為メ左書雛形ノ通青色地ニ北晨星ヲ象リ北海道旗章被立置候テ如何
哉 此段奉伺候 以上
申正月 御用係 蛯子末次郎」

「此五稜形旗章ノ原因タルヤ 北晨星ヲ象リ 則青色地ニ赤色ヲ點付ス」(『本支庁文移録』)

ここで「北晨」と記されているのは、つまり「北辰旗」のこと。色については、青地に赤の五稜星を配置することが提案されています。ここで描かれたのは、少し太ったような星の形でした。

蛭子末次郎は、1842年の箱館(現在の函館)に生まれました。1872年1月には開拓使御用掛(ごようがかり)として樺戸丸の船長を命じられ、その後は弘明丸、函館丸、矯龍丸、玄武丸の船長を歴任しています。彼が最初の船長に任じられた直後、先の「北海道旗章立置方、伺」を提出しているというわけです。

なぜ、蛭子末次郎は五稜星のマークを提案したのでしょうか。実は彼、あの五稜郭や弁天岬台場の設計・建設に携わった武田斐三郎(たけだあやさぶろう)の門下生です。函館にあった諸術調所で武田から航海術を習得したことから、恩師である武田の設計した五稜郭にヒントを得て、5つの角を有するデザインを考えたとする説があります。

▼五稜郭を設計した武田斐三郎のもとで教わった

また、船乗りにとって大海原を航行するにあたり、道標としていたのが北極星でした。その北極星をモチーフにした五稜星を北辰旗の案にしたとされています。

いずれにしても蛭子末次郎の案は採用されます。翌月の2月、開拓使は附属船旗章をこのデザインに定め、「北海道船艦旗章」となりました。下記の記録が残っています。

「本使附属船旗章ヲ蒼色五稜形ニ定ム」(『開拓使事業報告』)

「開拓使より大蔵外務両省へ差回 達」(1872年2月15日『開拓使公文録』)
「大蔵省 外務省 御中
当使船艦旗章 別紙雛形之通相定候間 為御心得御達申候
尤、縦横寸法等ハ船之大小ニ寄差別有之一定致ガタク候ニ付、
書載不致、此段為念申達置候也
壬申二月十五日」

これを受けて同月、さっそく3隻の開拓使附属船(安渡丸、辛未丸、石明丸)に五稜星の旗が掲げられ、以降、開拓使の外国形輸送船に掲げられていくようになりました。

黒田清隆が七稜星の案を提出するも却下される

五稜星に決まった開拓使附属船の旗ですが、約7ヶ月後の9月19日、開拓次官黒田清隆が政府(当時は正院)に対し変更を申し出ました。それが七稜星です。

1872年(明治5年)9月19日『稟裁録』(太政官への伺いをまとめた書類)「開拓使所用ノ旗章標、更正ノ件」で、「開拓使官邸並びに用船等の旗章」について「別紙旗影の通り更正願いたい」旨、図案入りで伺いを書いています。


(『開拓使稟裁録』北海道文書館所蔵・使用許諾済み)

色彩は五稜星と同じ青地に赤の図案ですが、7つの角があるデザインになっています。変更したかった理由は定かではありませんが、直前の6月に黒田次官肝いりで設置した開拓使函館邏卒(らそつ=警察官のことで北海道警察発祥地)の徽章に七稜星が使われていたことから、それに習ったものではないかという説があります。

しかし、黒田清隆次官の提案は「制定してから半年しか経過していない」ことを理由に正院から却下され、七稜星デザインは幻に終わりました。

わずか6年間で使用中止

やがて、この五稜星は旗にとどまらず、開拓使が建築した建造物や開拓使直営工場、その製品(ビールや缶詰など)においても、赤い星が描かれるようになり、北海道を連想させるマークとして道民の間に定着していきます。

▼ビールなど製品やロゴマークにも使われた

1873年(明治6年)10月に竣工した開拓使本庁舎の中央屋根塔には、五稜星の旗が掲げられました。この建物は焼失後、現在は北海道開拓の村内に再現されていますが、完成当時の写真から推測される(青地に赤の星マークであれば、白黒写真において星の部分をはっきりと視認できない)のと同じ、白地に赤星で再現されています。

▼開拓使札幌本庁舎の再現(北海道開拓の村内)。塔屋上に、白地に赤の五稜星の旗が立つ

このほか、冒頭で紹介したような明治の開拓使時代に建築された建造物に五稜星が残されています。開拓使麦酒醸造所をルーツとするサッポロビールは、現在もロゴマークに金色の星のマークが描かれています。

その後、1878年(明治11年)1月、開拓使は北辰旗の掲揚をやめるようになります。札幌本庁 開拓大書記官である堀基によるその通達は1878年1月10日になされ、「開拓使札幌本庁、工業局、警察署、公立学校、病院、出張所や分署などは標旗掲揚をしない」旨が記されています。1882年(明治15年)2月8日に開拓使が廃止されると、北辰旗も正式に廃止されました。

その後、三県時代や旧北海道庁時代では、旗やシンボルマークのようなものを設けることはありませんでした。

北海道旗・北海道章に受け継がれる

時代は進んで1960年代になると、都道府県旗を制定する場所が多くなったことから北海道でも機運が高まり、1969年の開道100周年を前に北海道旗・北海道章制定委員会を発足。1967年3月31日、公募した7500以上の案から「北海道デザイン界の父」と称される栗谷川健一の案が採用され、同年5月1日に制定されました。実に約90年ぶりに、北海道のシンボルマークが復活したのです。

こうして決まった北海道旗・北海道章は、五稜星ではなく七稜星。これについて、開拓使が使用した北辰旗をもとにしていること、当時着想されていた七稜星のイメージを合わせたものであることが説明されています。後者については、間違いなく黒田清隆が提案した変更案のこと。幻の七稜星デザインは、100年近い年月を経て、現代に蘇ったのです。

北海道章

道章は、開拓使時代の旗章のイメージを七光星として現代的に表現したもので、きびしい風雪に耐え抜いた先人の開拓者精神と、雄々しく伸びる北海道の未来を象徴したものです。

北海道旗

道旗は、開拓使が使用した北辰旗と、当時着想されていた七稜星のイメージを現代的に表現したもので、地色の濃紺は北の海や空を意味し、星を囲む白は光輝と風雪を表し、七光星の赤は道民の不屈のエネルギーを、またその光芒は未来への発展を象徴したものです。

今も残る五稜星のマークを探してみよう!

北辰旗の使用期間は1872年から1878年までの6年間でしたが、開拓使のシンボルマークとして後世に残すものとなりました。現在、下記の建築物にその名残を見ることができます。

北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)

赤れんが庁舎の屋上にバルコニーがあるのをご存知?上がってきました!

札幌市時計台

豊平館

清華亭

北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園の博物館本館

サッポロビール博物館・サッポロビール園

札幌開拓使麦酒醸造所(サッポロファクトリー)

北海道開拓の村 旧開拓使札幌本庁舎(ビジターセンター)

昔の遊具づくりから名物いももちまで! 「開拓の村」を十倍楽しむ方法

JR札幌駅南口「星の大時計」

当時のものではありませんが、五十嵐威暢が北辰旗をイメージしてデザインし、2003年に設置された大時計。JR札幌駅のシンボルとして掲げられています。

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このように、北海道開拓のシンボルであった「開拓使旗(北辰旗)」は、北海道最大都市に成長した札幌市の中に、今も見つけることができます。

参考文献:森勇二著『北辰旗を掲げた船』(2009年4月)