暗闇の中に刻画が!余市町「フゴッペ洞窟」で続縄文文化に思いを馳せる

まずは簡単な歴史の問題です。縄文時代の次は、何時代でしょう? 「そんなの、弥生時代に決まってるでしょ」と思うでしょうが、実は北海道には弥生時代が存在しません。代わりに、続縄文文化というものが存在しました。北海道民にもあまり知られていないこの史実、余市町のフゴッペ洞窟で確認することができます。古代のロマンに思いを馳せるべく、訪れてみました。

ある中学生の大発見からはじまった

▼国道沿いのフゴッペ洞窟看板

JR小樽駅から国道5号線を西へ約15km、約20分ほど車で走ると、左手にフゴッペ洞窟の看板が見えてきます。こんな場所に洞窟が、と驚かれるかもしれません。

フゴッペ洞窟が発見されたのは1950年の夏、海水浴で蘭島を訪れていた札幌の中学生によるお手柄でした。それより以前、1927年に国鉄函館本線の土砂除去の作業中、9点の刻画などが発見されていました。中学生は兄からそれらを見るように勧められ、立ち寄ったのです。そこで発見、採集したのが土器片でした。これにより同年、兄の所属する札幌南高等学校郷土研究部による最初の発掘調査が開始されました。

▼1950年、郷土研究部による発掘調査の様子(写真提供:余市町教育委員会)

続いて1951年、1953年には、北海道大学助教授を団長とするフゴッペ洞窟調査団が組織。本格的な学術調査が行われ、国内最大級の刻画のある洞窟遺跡が発見されたのです。

▼1951年頃の発掘調査の様子(写真提供:余市町教育委員会)

洞窟からは、土器や石器の他、多くの動物や魚の骨が発掘されました。貝類は二枚貝や巻貝、魚類はヒラメやカレイなどの沿岸魚からクジラまで、哺乳類ではシカが多く、他にもキツネやタヌキ、オオカミなどの骨も見つかりました。

これは当時から食物が豊富で、狩猟や漁労を行っていた証。本州で稲作を基盤とした弥生文化が発展していた頃、北海道では稲作をする必要がなく、そのため、弥生時代が存在しないのです。

▼続縄文時代の後北式土器(写真提供:北海道博物館)

狩猟・採集に重点を置いた続縄文文化は、本州の弥生時代より長く続きました。1~5世紀頃に主に使われていた後期北海道式薄手縄文土器(後北式土器)も、数多く発掘されています。北海道独自の文化を築いていったことが分かる続縄文時代。その古代の文化に触れるべく、現在は国指定史跡であるフゴッペ洞窟を訪れましょう。

真っ暗な洞窟の中へ

▼国指定史跡フゴッペ洞窟

国道沿いの看板に導かれ、フゴッペ洞窟に到着。入館料を支払って、いよいよ洞窟の中へ入っていきます。しかし、貴重な洞窟を保存するため、内部は徹底した管理が行われています。特に岩壁は強い光に弱く、照明はかなり抑えられています。まずは入口にある岩壁刻画の模型で、位置を確認してから入る方がいいでしょう。

▼入口には原寸大の模型が

いよいよ、フゴッペ洞窟へと足を踏み入れます。だんだん暗さに目が慣れてくると、さまざまな刻画をガラス越しに見ることができます。

▼舟に人が乗っている様子を表現

人の乗る舟の刻画は、北アジアに類似したものが見られるといいます。

▼翼のある人物像(有翼人)

フゴッペ洞窟でもっとも代表的な刻画が、南壁に描かれた有翼人です。北方のシャーマンとの関連があるとも考えられています。また、1971年には洞窟入口付近から、占いに使われたとされるシカの骨の卜骨(ぼっこつ)や7世紀の太刀が出土しています。

▼シカの肩甲骨を使った卜骨(写真提供:北海道博物館)

他にも、ベンガラが付着した土器やウバガイも出土しており、刻画を描いた道具として使われていたことが分かります。

▼ベンガラの付いたウバガイ(写真提供:北海道博物館)

こうしたことから、フゴッペ洞窟は住居として存在していたのではなく、何らかの儀式を行う特別な場所だった可能性が考えられます。暮らしを支える狩猟や漁労に関連した祈りが、ここで捧げられていたのかもしれません。

現在、こうした岩面刻画のある続縄文文化の遺跡は、フゴッペ洞窟と小樽市手宮洞窟の2カ所だけです。弥生時代を持たない北海道の、独自のルーツが見られる貴重な場所。そこに一歩足を踏み入れるだけで、大きな歴史のうねりを感じられることでしょう。

フゴッペ洞窟
所在地:北海道余市郡余市町栄町87
電話:0135-22-6170
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は開館し翌日休館)
冬期間閉館:12月中旬~4月上旬
開館時間:9時~16時30分
入館料:大人300円、小中学生100円
問い合わせ先
余市町教育委員会社会教育課 余市水産博物館
所在地:北海道余市郡余市町入舟町21番地
電話:0135-22-6187(直通)