稚内港北防波堤ドームって何?なぜ造られた?

稚内市 稚内港北防波堤に、半円のトンネルを真っ二つにしたかのような半アーチ構造の回廊があります。別名「利礼ドーム」ともいい、2001年には「北海道遺産」のひとつに選定されたほか、「平成15年度選奨土木遺産」に選定されており、稚内港のシンボル的存在となっています。

全長約427メートルの細長い防波堤ドームは、古代ギリシャ建築のような雰囲気。海側はカーブを描く壁に覆われていて、4車線の道路に面する側には、合計72本の柱が6メートル間隔で並びます。高さは約13.6m、奥行きは約8mあります。

稚内北防波堤ドームの全体像

なぜこのような立派な建築物が造られたのでしょうか。それには、厳しい自然環境との戦いがありました。(トップ写真:稚内市提供)

ドーム建築エピソード

建設されたのは、稚内から当時日本領だった南樺太の大泊(現在のサハリン・コルサコフ)までを結ぶ稚泊連絡船(1923年(大正12年)5月1日開設)に関連するものでした。

当時、稚内港には高さ5.5メートルの北防波堤があったものの、宗谷海峡を越えてやってくる強風がすさまじく、高波が防波堤を超えてくるという事態が頻発していました。そのため、乗船客が波にさらわれて海に転落する事故もたびたび発生していたといいます。

そこで、安全に貨客輸送できるようにするべく考案されたのが「北防波堤ドーム」でした。設計に携わったのは、当時26歳だった土谷実氏。北海道帝国大学(北海道大学)工学部卒業後に稚内築港事務所勤務となっていた人物でした。

上司に当たる平尾俊雄所長は、「防波堤に庇を付け、その中に汽車が入る構造にしてはどうか。その横の岸壁に連絡船を着ける。そうすれば天候に左右されずに乗降できるようになる」と提案。土屋氏が設計を担当し、当時としては画期的なコンクリート技術を導入。波の力を和らげるような機能性も兼ね備えつつも、外見が美しい防波堤を設計・建築したのです。

1931年(昭和6年)1月に建築を決定、わずか2か月で設計を書き上げ、同年夏には着工。5年後の1936年(昭和11年)に完成と、急ピッチで作業が進められました。

実際の工事を担ったのは伊藤健治郎。約12メートルの型枠を2基作り、移動しながらコンクリートを打設していく方法が採用されました。こうして、樺太への玄関口にふさわしい港が完成したのです。完成に合わせて、稚内・利尻・礼文の稚内利礼航路も運航開始となりました(丸一水産(翌年から稚内利礼運輸株式会社)運航)。当時は「東洋ニ誇ル稚内港連絡屋蓋防波堤」として紹介されました。

北防波堤ドームのすぐ向かい側の稚内桟橋に連絡船が着岸していた

北防波堤ドームと稚内桟橋駅

それと前後して、鉄道との連絡にも改善が見られました。1923年(大正12年)に稚泊連絡船が就航すると、鉄道と連絡船の接続が不便であることが明らかになります。

かつて日本最北の駅(終着駅)は南稚内駅(当時は稚内駅)であり、船の乗り場までは2㎞もの距離があったのです。線路を延伸するのにも時間がかかるため、まずは1924年(大正13年)に現在の稚内駅近くに稚内連絡待合所が開設。連絡船就航から5年後の1928年(昭和3年)12月26日になってようやく臨港線が開通し、稚内駅(開業当時は稚内港駅)が開業しました。

北防波堤ドームと稚内駅・稚内桟橋駅・フェリーのりばの配置図(簡略化しています)

稚内駅(当時は稚内港駅)から船乗り場までは5~10分歩いて乗船していました。その不便を解消するため、北防波堤ドーム完成から2年後の1938年(昭和13年)10月1日、線路をさらに北へ延伸することに。防波堤ドームに横付けする形で引き込み線を延伸し、稚内桟橋駅(仮乗降場=稚内駅構内扱い)を開業したのです。ホームはドーム内に設けられ、駅舎は南側(反対側)に設けられました。こうして、列車を降りてすぐに連絡船に乗船できるよう改善されました。

最盛期には、稚泊航路(鉄道省)稚斗航路(稚内―本斗(現サハリン・ネベリスク)北日本汽船)利礼航路(稚内利礼運輸)の3航路の船舶が離着岸していました。

かつてはここに稚内桟橋駅(仮乗降場)があった

しかし、それも長くは続きませんでした。終戦に伴い、1945年8月24日4:00稚内着の「宗谷丸」をもって運航が不可能となり、事実上航路廃止。それに伴い稚内桟橋駅も事実上廃止となりました。北防波堤ドームが最もにぎわいを見せたのは、1936年の完成から1945年までの10年弱のことだったのです。

現在の北防波堤ドーム

稚内公園から見下ろす稚内港と北防波堤ドーム

1965年(昭和40年)頃になると、厳しい環境に耐えてきた北防波堤ドームも劣化が確認されるようになりました。世界的にも貴重な港湾構築物であることや保存の声が多かったことから、原型通りに改修復元することとしました。一時解体、線路撤去の上、1978年(昭和53年)から1980年(昭和55年)まで3年がかりで復元工事を行いました。

それと前後して、1972年(昭和47年)には、稚内市によって稚内桟橋の2階建て上屋を老朽化のため解体、それに代わって埠頭公園が誕生しました。1987年(昭和62年)には北防波堤ドームから続く「しおさいプロムナード」(総延長215メートル)が完成しました。

利尻島や礼文島への航路があるため稚内フェリーターミナルが営業を続けていますが、2008年には新ターミナルが竣工し、北防波堤ドーム前から離れました。再整備の結果、2012年には北防波堤ドーム公園・波止場プロムナードが完成。この公園には、稚内とゆかりのある大鵬の記念碑も建立されています(2020年)。

2008年の移転まで北防波堤ドーム前の埠頭にあった稚内フェリーのりば(2007年4月)

現在は人があまり訪れないひっそりとした場所となり、C55型蒸気機関車動輪(1996年までここに静態保存されていたC55形49号機の一部)や稚泊航路記念碑が置かれています。西側には階段もあり、ドームを上から、ドームの屋根と海と消波ブロックを同時に眺めることができます。

稚泊航路記念碑も建つ
廃車となった蒸気機関車の動輪が遺されている

(※北防波堤ドームは厳しい風雨を防げるとあって、かつてはライダーたちがテントを張って宿泊する姿が見られましたが、現在は禁止されています。)

参考文献:『北防波堤ドーム物語』(稚内市)『北海道遺産』ほか

※本稿は2008年3月14日に掲載した記事を再編集したものです。