札幌市民にとってはそこにあるのが当たり前で、もしかしたら空気のような存在になっているのかもしれない札幌市時計台。観光客がうれしそうに記念撮影をしているのを横目で見ながら、ただ足早に通り過ぎるだけの場所になっていませんか? でも、改めてその成り立ちを問われたら、はっきりとは答えられないという人も少なくないはず。
そこで今回は、時計台の歴史をクローズアップ。知ってみれば、明日から時計台を見る目が変わるかも。
いつできたの? 誰が建てたの?
▼建設当初の貴重な写真
まずは正式名称から。時計台は、実は改名した過去があります。現在の正式名称は「札幌市時計台」ですが、建設当初から1998(平成10)年までは「旧札幌農学校演武場」とされていました。
札幌農学校といえば、言わずと知れた北海道大学の前身。かの有名なクラーク博士の提言により、時計台は農学校生徒の兵式訓練や入学・卒業式を行うための講堂として建設され、1878(明治11)年10月16日に完成しました。
▼時計台外壁にある「演武場」と書かれた看板
▼2階の屋内にも看板が。ただし、これらは当時のレプリカ
ちなみに完成当初は今より少し北側に位置し、しかも時計塔はありませんでした。
▼当初と現在の位置の違い
▼元の演武場跡を示す石碑
完成から数日後、農学校のホイーラー教頭はニューヨーク市にあるハワード時計商会に塔時計を注文します。ただ、翌1879(明治12)年に届いた時計機械は、予想以上に大きなものでした。これを設置するとなると大がかりな改修と費用が必要ということで、当時建設中だった豊平館に設置することも検討されました。
▼お馴染みのこの時計塔、別の建物に設置されていたかも!?
しかし、ホイーラー教頭は力説します。演武場に塔時計を付けることの意義、そしてそれを札幌の標準時刻とすることの重要性を。この説得に黒田清隆開拓長官は心を打たれ、完成間もない演武場の時計塔を作り直し、時計機械が据えられたのです。こうして1881(明治14)年8月12日、塔時計は一里四方に鐘の音を響かせ、札幌市民に正しい時刻を伝えはじめました。
現在の時計台、そして新しいクラーク像
ちなみに現存している時計台は当初のままの姿で残されたものです。外観は洋風ですが、後から付けた時計塔は安達喜幸氏のデザインで、実は和風だということをご存じでしょうか。神社の神輿ややぐらに使われる型なのですが、それでも違和感なくマッチしているところが不思議な、独特な建物になっています。
▼時計塔部分は実は和風のデザイン
最初の頃の記録は残っていませんが、時計塔の保守は明治20年代から中野時計店が行っていました。ところが時代が流れ、昭和に入ったばかりの1928(昭和3)年頃になると時計が止まり、誰も修理する人がいなかったといいます。
そこで手を挙げたのが、井上清さんでした。止まってしまった時計をいつか直したいと考えていた清さんは市役所に掛け合い、1933(昭和8)年にボランティアで修理を開始。
▼赤い屋根のすぐ上、白い板の真ん中部分に清さんの修理跡が
機械室にある採光のためのガラス窓が割れ、そこから雨漏りし、機械が錆びて動かなくなっていました。清さんは板で窓を塞ぎ、機械を修理し、約5年間止まったままだった時計を動くようにしたのです。
▼文字盤の真ん中から左寄りには、文字盤上の電球を変える扉も
その後、1961(昭和36)年には札幌市の有形文化財第1号に指定され、1970(昭和45)年には国の重要文化財に指定された時計台。清さんの息子である和雄さんが、2014(平成26)年3月まで保守を受け継いでいたそうです。
さて、そんな時計台に2017年10月16日、新たな記念撮影スポットが登場しました。時計台の2階に、クラーク博士がお目見えしたのです。
▼背もたれに回した左手がダンディ!
ベンチに並んで座ればクラーク博士とのツーショット写真が撮れるとあって、早くも観光客から好評を得ています。そんな情報は知らない、もしくは知っていても指をくわえて見ているだけなんて、もったいない! ぜひクラーク博士と写真を撮って、時計台の歴史に思いを馳せてみてください。そしてホイーラー教頭や井上さん親子など、時計台を支えてきた人々の熱い情熱を思い起こしてみてくださいね。
日本最古の時計台と判明
札幌市時計台と共に日本最古の時計台とされてきた兵庫県の辰鼓楼。辰鼓楼が動き出した月日までは不明でしたが、古い資料により兵庫県の辰鼓楼がわずかな差で日本最古ではないことが、2021年6月までに判明しました。札幌市時計台が動き出したのは8月12日、兵庫県の辰鼓楼は27日後の9月8日。これにより、札幌市時計台が日本最古の時計台の地位を確実なものとしました。このことはNHKで報じられました。