なぜ下川町が手延べうどん産地に?日本最北の手延べ麺の里の歴史に迫る

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手延べ麺とは、小麦粉を原料とし、食塩水を加え練り合わせ食用植物油を塗付し、ヨリをかけながら引き延ばしと成熟を繰り返す製法(JAS規格で手延べうどんは太さ1.7mm以上)。下川町産の手延べうどんでは、塩は稚内市の「宗谷の塩」を使用するなど、道産素材にこだわる。生産は寒い地方に適しており、道内では上川管内下川町が日本最北の手延べ麺の里、北海道産小麦100%使用の手延べうどんの生産地として知られている。コシが強く、風味もある食感が特徴だ。

下川町には、2007年発売の下川町産ハルユタカ小麦を100%使った「雪の華舞」や、2005年本格販売開始の北海道産小麦をブレンドした道産100%「奥蝦夷白雪」といった「しもかわ手延べうどんブランド」が存在する。ほぼ手作業で丁寧に製造するため生産量に限りがある希少な麺だが、町内に9の製麺工場が操業中である。対人口比でこれほどの数の製麺工場があるのは道内でも珍しいといえる。実は下川町の小麦生産量も道内有数であり、地産地消の例として際立つ。

では、そもそもなぜ下川町で手延べうどんの生産が盛んになったのだろうか。調べていくと、下川町にかつて存在した大手製麺工場の影響を色濃く受けていたというのだ。(※画像はイメージ)

下川町手延べうどん誕生のきっかけは菊水

戦後間もない1949年12月のこと、杉野森一氏が故郷・下川町内に「杉野製粉製麺工場」を創業した。配給小麦粉を主原料として製粉・製麺の委託加工を行ったのだ。今に比べると品質の悪かった配給小麦粉に苦労しながらも、手回し機械を使って加工していたという。そんな中こだわりを持って製造を続けた結果、事業は拡大。1963年に商品ブランドにちなんで株式会社菊水を発足するに至った。その菊水は1967年1月、現在の札幌市白石区に工場を新設。今や江別市に本社工場を構える道内大手製麺工場に成長した。

菊水の工場は、1980年に焼失・閉鎖されるまで下川町内にあったが、その間に下川町に手延べ麺製造技術が持ち込まれた。創業者杉野氏と下川町内の米穀店経営倉本博氏が、農家の副業に手延べ麺製造はどうかと考え、1970年に手延べ麺の本場である兵庫県たつの市に赴き製造技術を導入し、1972年に倉本製麺創業。これにより、下川町における手延べ麺製造が本格スタートとなった。さらに、菊水下川工場の移転(1980年)後、下川町内に残った従業員の数名が、1981年以降に手延べ麺製造を開始した。

その後は、町としても手延べ麺製造業の拡大に努め、1984年には4工場、下川手延麺組合が発足した1985年には3工場が創業した。現在は9工場(佐藤製麺・伊藤製麺・中川製麺・はるお製麺・たばた製麺・杉田製麺・さんが製麺・高橋製麺・水間製麺)が操業中である。

下川町の手延べうどん誕生には、製麺業道内大手の菊水の影響を受けて拡大したといえるだろう。寒暖の差が激しい地域で丹念に製造される手延べうどんは評価も高く、下川町を代表する特産品としてふさわしい。現在は「しもかわうどん祭り」というイベントが開催される等、うどんの町として定着した。