知床の歴史

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知床はかつてそれほど知られていない地域でした。かつて松浦武四郎が知床日誌を記し、クナシリ・メナシの戦いの舞台となり、知床旅情等のヒットによる知床ブームの到来などがありました。

知床の初期の歴史

知床岬の続縄文文化を経て、オホーツク海沿岸部の文化であったオホーツク文化とその他全道で見られた擦文文化が融合したトビニタイ文化が見られました。その後アイヌの人たちが生活するようになりました。

知床に関する現存する最古の記録は、17世紀末のシャクシャインの戦いに関係したものでした。知床・斜里からも援軍を送ったことが記録されています。1789年にはクナシリ・メナシの戦いでは、目梨郡羅臼が舞台となりました。

1807年には半島付け根の斜里で津軽藩士殉難事件が発生。1845年に初めて知床を探検した松浦武四郎は、「知床日誌」の中で、松前からやってきた商人が漁場を開いて、アイヌの人たちを酷使していたことを記録しています。幕末期には夏に知床岬にも人が住んでいたことが記されています。

知床はその後、東蝦夷地と西蝦夷地に分割された際に、知床半島を分割して区割りされました。現在のオホーツク総合振興局、根室振興局の境界線のもとになりました。明治時代になると、北見国斜里郡、根室国目梨郡になりました。

自然に関係しては、知床硫黄山が何度か大爆発を起こしています。1880年・1936年に大爆発が起きています。本格的漁業が始まったのは、羅臼では1887年にタラ・カレイ等の底漁業がスタート、シャリでは1902年にホタテ漁が開始されました。カムイワッカ川では、1936年に硫黄採掘が開始されました。

かつて存在した幌別・岩尾別集落

ところで、知床半島斜里町側、旧遠音別村のウトロ以遠「岩宇別開拓地」に2つの地区がありました。知床自然センター周辺の「幌別地区」、岩尾別川を境に知床五湖までの地域を「岩尾別地区」と呼んでいました。開拓大量入植は大正時代(1914年~)、戦前(1938年~訓子府より)、戦後(1950年~樺太引揚者・道内各地より、1953・1954年に宮城県より)の3回に大別できます。

現在は観光道路沿いに民家なんてありませんが、かつて周囲には農家があり、知床開拓地として農地が広がっていたのです。幌別地区には知床自然センター近くに公民館、岩尾別川流域の岩尾別ユースホステル近くには岩尾別小中学校、旧鮭鱒孵化場があり、岩尾別地区にはでんぷん工場、公民館、墓地などがありました。

とはいえ、開拓入植時代は現在のような舗装道や大きな通りはありませんでした。斜里町知布泊からウトロまでも主に山道しかなく、当然ながらチャーター船を利用するしかありませんでした。どこでもそうですが、水道敷設に苦労したり、電力発電も苦労しました。知床五湖の水道を引いた五湖水道(岩尾別)、幌別水道(幌別)、発電は山から吹き下ろす「羅臼おろし」の風を利用した風力発電を考案。エコでした。

農業としては、風が強くあまり作物は育たなかったものの、岩尾別産馬鈴薯はよく栽培され、高値で取引されました。そのため「でんぷん工場」(600坪)が建設されました。酪農では短角牛が導入されました。鉄鉱石を産出するウトロ鉱山では、戦時中には必要とされて室蘭まで運び出されました。

知床ブームの到来へ

1944年にヒカリゴケ事件として知られる、ペキンノ鼻遭難漁船人食い事件発生。戦後の1947年には樺太引揚者が漁業開拓を始めました。1960年には「地の涯に生きるもの」の映画ロケが行われ公開され第一次知床ブーム、1971年に知床旅情が大ヒットして第二次知床ブームが到来しました。それまではほぼ無名の地でしたが、一気に全国区となり、多くの人が訪れるようになりました。

交通の面では、1958年に斜里~ウトロ間にバス運行が開始されました。1963年には羅臼~ウトロ間を結ぶべく知床横断道路の建設が着工となりました(1980年開通)。同年には知床岬灯台が竣工となり、翌年に知床観光船が就航しました。1970年には羅臼町側で相泊まで道路が延伸されました。

知床自然保護の動き

知床の自然保護に関しては、1964年に22番目の国立公園として知床が指定されました。1977年に知床100平方メートル運動がスタートし、民有地を買い取って行きました(1997年目標値達成し100平方メートル運動の森トラスト開始)。1983年に知床羅臼ビジターセンターが、1987年には知床自然センターがウトロ側に開設され、観光客受け入れ態勢も強化されました。

そして2005年7月、特異な生態系を残す知床が、道内初、国内3番目の世界自然遺産に登録されました。