高台から津軽海峡と函館山と函館空港が望める!国指定史跡・志苔館跡

「道南十二館」をご存知でしょうか? 中世14世紀後半から15世紀にかけて、函館から上ノ国まで12の館が和人によって築城され、16世紀まで渡党領主の館としての役割を担いました。そのうち最も東に位置するのが、函館空港すぐそばの「志苔館」(しのりたて)跡です。歴史的に貴重な国指定史跡ですが、津軽海峡、函館市街、函館山を望む眺望のよい高台ともなっています。

志苔館ってどんなところ?

まずはその全体像をご紹介しましょう。形状は上空から見るとほぼ長方形。郭内は東西70~80m、南北50~65m、面積約4,000m2という広さです。高さ2~4m、幅10~15mの土塁で囲まれ、その外側に壕が堀りめぐらされています。正面は函館山方向の西側。その西側には別の小さな土塁があり、本体との間に二重の壕が掘られています。

志苔館は函館市中心部から約9㎞東、いまの函館空港と津軽海峡の間の海岸段丘南端に築かれました。標高は25mほどの高台の上にあり、函館山と市街、晴れた日には津軽海峡の向こうに下北半島を一望することができます。

志苔館の歴史

築造は14世紀後半とされる志苔館。記録は少ないものの、松前藩の史書『新羅之記録』によると、室町時代ごろに小林太郎左衛門良景が館主として居住していたことがわかっています。1456年にこの付近でアイヌの蜂起があり、これにより翌1457年5月14日に志苔館が攻め落とされたといわれています(コシャマインの戦い)。

この後、再び小林氏が館に居住していましたが、1512年4月16日に再びアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落。当時の館主・小林彌太郎良定が討ち死にしました。のちに小林氏は松前藩に従属したため、志苔館は廃館となりました。

16世紀中期以降、館跡がどのように使われていたかは不明で、明治時代にはかなり荒廃が進んでいたといいます。そのため、地元の人たちの手により保存活動がなされてきました。大正時代には北海道庁による調査が行われ、1934年8月9日に史跡に指定、1977年4月27日にはエリアを拡大し追加指定がなされました。1976年から土地の公有化を進め、1983年~1985年にかけて初めて本格的な遺構確認発掘調査と整備が行われました。

志苔館跡から発掘されたもの

志苔館跡の郭外は時代とともに構造が変わってきたことが分かっています。築造当初は、正面の二重の掘にそれぞれ橋が架けられており、改築後には内側の橋が撤去され土橋に変わりました。復元された現在は、外側の堀にだけ橋が架けられ、内側の堀は土橋になっています。

▼杭の目印で何がどこにあったのかだいたいわかる

郭内からは、主に14世紀末から15世紀にかけての建物、柵、堀、井戸などの遺構が発見されています。建物跡は北側に7棟発見されており、3つの時代の建物のものとされています。約20m×約11mの建物が西側と中央部に並び、周囲に柵が設置されていました。東側にも小さな建物群があり、北東に井戸跡もみられます。

また、中国製含む陶磁器類76点、古銭含む金属製品279点、砥石など石製品8点、地下4mから発見された井戸枠や箸や桶など木製品も出土しています。

▼井戸跡

現在は当時の面影を残しつつ、緑の芝生が気持ちよい憩いの広場となっています。時折函館空港を離着陸する飛行機の音はしますが、ひっそりとした場所です。函館市街からも距離があり、訪れる人はほとんどいない場所ですが、館の正面入口の先に函館山と津軽海峡をのぞく景観はここならでは。当時の小林家はこの風景を見ながらどんな生活をしていたのでしょうか。感慨深いものがあります。