創立100周年を迎えた北洋銀行と、結びつきの強い道内主要都市の話題をお伝えする100周年連載。今回は札幌市からお届けします。
大通西3丁目に本店を新築した1954年以来、北洋銀行は半世紀以上にわたり大通公園と共に歩んできました。市民にとって身近な存在の大通公園ですが、昔はどのような場所だったのでしょうか。今回は大通公園の100年以上にわたる歴史を紐解きます。
野球場、テニスコート、豊平館があった大通公園
▼大通公園の変遷
大通公園の構想が生まれたのは1869年(明治2年)のこと。開拓判官の島義勇が札幌本府建設計画を示したことがはじまりです。札幌本府の北を官庁街、南を住宅地また商業街とし、2つのエリアをわける火防線(幅105メートル)を道路として整備する計画で開発され、1871年(明治4年)に完成、翌年には「後志通(しりべしどおり)」と呼ばれるようになりました。
1876年(明治9年)には、西洋花卉を植えた西3・4丁目を「大通草花園」と呼ぶようになり、1881年(明治14年)に「後志通」を「大通」へと改称するきっかけになりました。
本格的に整備されたのは1909年(明治42年)~1911年(明治44年)。造園の権威とされた長岡安平が、西3~7丁目を逍遥地(いわゆる散策できる場所)として整備したのです。完成した1911年は、大通公園の歴史上、重要な年となりました。
戦後は、西2丁目にバレーボールコート、西3丁目に教会、西4丁目に野球場、西5丁目にテニスコート、西6丁目にテニスコートとバスケットボールコート、西7丁目に野球場、西8丁目に児童遊技場が続々誕生。冬にはスケート場も開設され、一時期、大通公園は運動場のようになりました。
しかし、市民にとって花々の咲く場所というイメージが強かった大通公園。市民の声にこたえ、西3丁目以西については1950年(昭和25年)から5年かけて、芝生や花壇がある公園へと復旧工事がなされました。
一方、西1・2丁目は北側の区画の建物が大きく公園側にせり出しており、西1丁目北側には豊平館(現在は中島公園に所在)、西1・2丁目にはバスターミナルがありました。この2区画も公園化すべく、1957年(昭和32年)に豊平館が解体・移築され、跡地にさっぽろテレビ塔が完成。1968年(昭和43年)にはバスターミナルも移転しました。こうして、現在に至る大通公園の姿ができあがったのです。
あの有名な歌人も訪れた!
▼大通公園に建つ、石川啄木の歌碑
北洋銀行本店が入る大通ビッセの目の前、大通公園3丁目北西には、石川啄木の銅像と歌碑が建っています。歌碑には『一握の砂』の短歌を引用し、こうあります。
秋の夜の
玉蜀黍(とうもろこし)の焼くるにほいよ
21歳の石川啄木は1907年(明治40年)9月14日に函館から札幌に入り、北門新報社で勤めるも、同月27日に小樽へ引っ越しました。わずか2週間の滞在中に、札幌の街を歩いた啄木。道幅の広い札幌の街並みをよくあらわした一句と言えるでしょう。また、明治時代には既に街角の屋台でとうもろこしが売られており、これが現在のとうきびワゴンのルーツとされています。
明治時代からイベント会場として使われてきた大通公園
▼年中イベントが開催されている大通公園
札幌市民にとって、大通公園は憩いの場であると共に、季節ごとにイベントが開催され賑わう場所でもあります。冬のさっぽろ雪まつりにはじまり、ライラックまつり、ビアガーデンで知られるさっぽろ夏まつり、秋のさっぽろオータムフェスト、冬のさっぽろホワイトイルミネーションに至るまで、年中イベントが開催されています。
大通で最初にイベントが開かれたのは、1878年(明治11年)の第一回農業仮博覧会。その後、北海道物産共進会、児童博覧会、菓子博覧会などの催し物が次々と開催されました。
戦後になると、市民のお祭り会場として本格的に使われるようになります。まず1950年(昭和25年)に雪まつりが西7丁目で初開催。市内の4高校と2中学の生徒が6基の雪像をつくり、1日だけ開催されたといわれています。4年後には夏まつり、その5年後にはライラックまつりが初開催され、市民にとってさらにかけがえのない公園となっていきました。
札幌本府建設の時から区画が存在し、札幌中心部の発展と共に100年以上の歴史を刻んできた大通公園。公園を歩き、イベントに足を運び、札幌の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。
参考文献:さっぽろ文庫32『大通公園』(札幌市教育委員会 1985)、大通公園100周年記念事業『札幌のまちとともに歩んだ公園』(札幌市、2011年)