道内各地の特産品や地場産業の話題をお伝えする連載、「北洋銀行のこの街紹介」。今回は本別町からお届けします。
戦前から豆のまちとして知られていた本別町。その評判を支えてきたのは、生産者の皆さんの努力はもちろん、町役場や、地元の有志の人々のがんばりでした。本別町の歴史を紐解くと共に、ここで生産されているさまざまな豆の魅力に迫ります。
豆と共に歩んだ町の歴史
本別町と豆の関係は、古くは開拓時代にまでさかのぼります。本州を離れて本別を第二の故郷とした人々の生活を支えたのが、この地方の適作物である豆でした。大正時代になると、豆生産は黄金期を迎えます。第一次世界大戦が勃発した1914(大正3)年、豆の輸出が急増し、農民たちは競って豆を植えました。輸出向けの豆は高騰し、ついには豆成金と呼ばれる人も誕生するほどでした。
▼今も「豆のまち」と言われる本別町
ただし、こうした熱狂は長くは続きません。昭和に入った頃には農作物価格が大暴落し、さらには雹害(ひょうがい)や冷害などによる大凶作で、救済対策が施される事態となります。豆の作付面積が盛り返したのは、第二次世界大戦の終戦から10年近くが過ぎた頃でした。特に相場の変動する小豆は「赤いダイヤ」と称され、本別町の豆づくりは活気を取り戻していきます。
さらなる転機は1980年代後半、昭和の終わり頃に訪れました。甘納豆の老舗である神戸市の岡女堂を本別町に誘致しようという動きが起こったのです。「岡女堂さんの工場を本別に建てる勝手連」、通称「勝手連」という町おこしグループもでき、とうとう四代目社長の大谷泰男さんが「岡女堂本別工場」として建設を決意。町全体が歓迎ムードに包まれました。
▼現在も稼働する岡女堂本別工場
岡女堂の工場がすべて本別町に移転し終わったのが、1991(平成3)年のこと。なんと1995(平成7)年には、会社が自費で工場に最寄りの駅までつくってしまったというから驚きです。
▼今では廃線となってしまったふるさと銀河線の「岡女堂」駅
駅だけではありません。おかめの置物などを展示した「豆ドーム」や「豆神社」などもつくり、一時は観光客で大いに賑わっていました。
▼「豆神社」は、今やパワースポットに!
その後、1995年には当時本社があった神戸が阪神大震災に見舞われるなど紆余曲折もありましたが、当時工場長として老舗の技を極めた鈴木真智雄さんが事業を継承。岡女堂本家のブランドのもとに、現在でも本別の豆を使った商品づくりに邁進されています。
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変わらないトップブランドの味
歴史を紐解けば決して順風満帆だったわけではありませんが、いつの時代も変わらないのは、本別町の豆が世界に誇るトップブランドだということ。全体的に豆作は減ってきているものの、地元の人々の豆に対する愛情は昔と同じ、いやそれ以上かもしれません。
2000(平成12)年には、JA本別町女性部のメンバーが「本別発・豆ではりきる母さんの会」を結成。本別の良質な豆を使って豆腐や味噌を作り、インターネット販売やイベント参加を通じて全国にアピールしています。
「本別発・豆ではりきる母さんの会」も参加しているのが、十勝本別「キレイマメの会」です。この「キレイマメの会」は、本別町観光協会や地元の飲食店などが立ち上げたプロジェクトで、地域原産の中生光黒大豆(ちゅうせいひかりくろだいず)という黒豆を使用した豆製品「キレイマメ」シリーズを展開しています。
▼武蔵野美術大学にデザインを依頼した「キレイマメ」ブランド
名前の由来は、体の中からキレイになってほしいという思いから。豊富な栄養素が含まれている黒豆の魅力をストレートに表現しています。本別町の道の駅「ステラ★ほんべつ」にて購入可能なので、一度食べてみてはいかがですか?
▼道の駅では、大豆モチーフのキャラクター「元気くん」がお出迎え
また、道の駅内にある「レストラン秀華(しゅうか)」では、「キレイマメ」の味噌や納豆を使った料理も食べることができます。
▼「キレイマメ」の味噌で作る豚丼など、メニューいろいろ
そして圧巻なのが、道の駅で購入できる豆の種類の豊富さ!
▼こんなにさまざまな豆の種類が!
このコーナーを見るだけでも、本別町がいかに豆のまちであるのかがうかがい知れるはずです。おいしくて、栄養があって、安心・安全な本別町の豆。今も昔も変わらないその魅力あふれる農作物は、まさに本別町の人々が守り抜いてきた大切な宝物なのでしょう。
取材協力
北洋銀行 本別支店
所在地:北海道中川郡本別町北3丁目2番地23
電話:0156-22-2111
窓口営業時間:9時〜15時