いよいよ今年11月に新庁舎へ移転する白石区役所。今回は白石区の歴史について振り返ってみようと思います。
白石はどのようにして発展していったの?
白石区の誕生は明治4年までさかのぼります。戊辰戦争に敗れた白石城主、片倉小十郎の家臣約600人が望月寒(今の白石中央)に入植したのがはじまりでした。入植時期が11月だったこともあり、本格的な冬をむかえる前に小屋掛け(壁や屋根をススキなどのカヤでつくった簡素な家)を急ピッチで仕上げる中、その働きぶりを開拓使、岩村通俊(のちの初代北海道庁長官)が讃え、「白石村」と命名されました。
働き者の頑張り屋さんが多かったみたいですね。それを物語るように明治5年には、はやくも最初の公の施設となる、白石小学校の前身、学問所善俗堂が建てられました。札幌で二番目にできた小学校です。(ちなみに最初の小学校は資生館)9年後の明治14年には公立白石中学校となりました。
▼善俗堂(明治41年卒業生と職員 札幌市立白石小学校90年記)
さらに明治16年、待望の水田試作に成功し(現在の白生公園付近)寒冷地に不適とされていた米作定着への大きな一歩となりました。最初の試作から数えて9年後のことでした。
▼開田碑(昭和15年11月10日建立 札幌市公文書館所蔵)
工業面では、明治17年白石村北郷(今の平和通6丁目)に鈴木煉瓦製造場が建設され、北海道における本格的なレンガ製造業の先駆けとなりました。この工場では多くの農家さんたちが農作業で生計が成り立つまで、いわゆる出面取りとして日雇い労働をすることで家計を 支えていたといわれています。
▼鈴木煉瓦工場(明治20年ごろ 札幌市公文書館所蔵)
交通インフラとしては、善俗堂開所後すぐに横丁通(現在の米里行啓通)が開削され、札幌本府への重要な交通路となりました。また幌内鉄道が開通し、白石にも鉄道が敷かれました。
上記の鈴木煉瓦製造所でつくられたレンガはその恩恵をうけ、札幌の街づくりのための建設に大きく貢献しました。その後明治22年に江別道路(現在の国道12号線)が開通、さらに翌年、東橋が完成し、札幌への往復がさらに便利になりました。
▼白石停車場(「白石村誌」より 札幌市公文書館所蔵)
大正に入り、定山渓鉄道の開通や一条橋の完成、さらにニシンの大豊漁もあり、人々の生活に少しずつ余裕が生まれてきたといわれています。特に定山渓鉄道は定山渓温泉へのお客を乗せるだけではなく、豊羽鉱山の鉱物、周辺の木材などの天然資源を札幌へ運ぶ輸送機関として非常に重要な役割を果たしました。
戦後、昭和25年には札幌市と合併し「札幌市白石町」として新たなスタートをきりました。その後は白石の各地域の人口が増加し、インフラがさらに整備され、それにともない商業が活性化してきました。
本郷商店街の礎を築いた長浜万蔵
戦後の白石発展の端緒として、なんといっても長浜万蔵氏を忘れてはなりません。国道12号線の本通と南郷の間にある場所を本郷と名付け、農地を開放し本郷商店街をつくりました。本郷通りの北側に胸像があり、毎年8月には万蔵祭が開催されています。
本郷通りには個性的な商店が多く立ちならび、車を降りてゆっくり歩いてみると、居酒屋さんを中心に一方通行の両側すべてが店舗になっています。長くこの商店街に店を構える店主の方に話をうかがうと、「ディナーのみのフランス料理のお店がおいしいですよ。そこの近くに正直あまり人に教えたくない居酒屋さんがあるんだけど、あそこはおいしいよ」と、ほんのすこし商店街のことをたずねると饒舌に話してくれました。
白石には商店街が多い印象があります。しかも特徴的な商店街です。その中でも本郷通り商店街は先人の努力をしっかりと受け継ぎ、さらに向上しようとする白石のスピリットが根付いてる気がします。
古いだけではない、かといって新しすぎない街並み。個性的なお店だけでもなく、高齢者も、若い方も気兼ねなく利用できる街。そんなバランスのいい商店街をすべて制覇したくなりました。
北洋銀行白石中央支店(シロイシチュウオウ)
所在地:北海道札幌市白石区本通4丁目南2番8号
電話番号:011-861-8231