その女の人は、しゃべることはないけど、キコキコ、カタカタと音を出してミシンを踏み続けている。お店の看板娘らしく笑顔で、朝から晩までひたすら、店頭にあるレトロなジグザグミシンの前に座り続ける。時にファイターズのレプリカユニフォームを着、時に和服や浴衣を着、時にマフラーもする。そんな彼女は札幌市民によく知られ、札幌市民から愛されているのである(はずである)。
彼女がいるのは、札幌市中央区南三条西3丁目1-4、交差点角地にある中山ミシン店。看板娘の名前は「千鳥ふみ子」という。お気づきかと思うが、ふみ子さんとは、マネキンである。
中山ミシンが創業したのは昭和初期の1928年。札幌でもかなり老舗のお店の類になる。ちょうど狸小路で鈴蘭灯が設置され始めた頃で、全国にその名が知られ始めていた頃の時代になる。そして、三越札幌店が開業したのが4年後の1932年だから、それよりも前から営業していたことになる。
二代目社長の中山菊雄さんによると、「千鳥ふみ子」さんを店頭に置いたのは初代社長という。ただ置いておくだけじゃつまらないから動くようにしたい、とミシンの動きに合わせて動くようにした。1956年のことである。
あのマネキンに名前があることに驚かれるかもしれない。「千鳥ふみ子」という名はどのようにつけられたのであろうか。当時ミシンといえば直線に縫うことしかできなかったが、「千鳥ふみ子」さんが登場した時代は、ジグザグに縫うことができるミシンが開発され出回るようになっていた。そこで、ミシンの針の動きが千鳥足に似ていることから「千鳥」、ペダルを踏み続けるから「ふみ子」と命名した。
「千鳥ふみ子」さんは1956年にこの”仕事”を始め、半世紀にわたってお店の前で通行人を見守り続けてきた計算になる。まだ周囲に高いビルもなかったような時代からである。札幌中心部の街の移り変わりや人々の変化を目にしてきたふみ子さんは、1950年代当時の姿そのままで今もまだまだ美しい。
長年屋外にいたため、アーケードが撤去された後は特に雨風にさらされてきた。それにも負けず、時に髪形を変え、時に服装を変え、札幌市民を楽しませてきた。7~10日に一度の衣替えは、子どものおさがりなども活用しながら、当時の女性社員が担当していたという。マネキンそのものは下半身のみ二代目。蝶番(ちょうつがい)を木製から金物に変えてから摩耗するようになったためという。
半世紀にわたり札幌の歴史を見つめてきた「千鳥ふみ子」さん。中山ミシンを訪れてその歴史を感じてみてはいかが。
※2013年7月10日、中山ミシン商事ミシン小売部はビル1階の中山ミシン店を閉店した。それに伴い、千鳥ふみ子さんも撤去されている。今後どうなるかについては未定。
※2017年9月15日:2013年の閉店後、その行方が心配されていたが、中山ビル5階で事務員として働いてきたことが明らかになった。4年の月日を経て、同日より札幌国際芸術祭2017大風呂敷プロジェクトの応援隊長に就任。2013年以降その姿を見ることは難しかったが、ひさしぶりに市民の前にお披露目となった。中山社長は「本人は一生懸命やると言っている」と本人を代弁しコメントを発表した。これに伴い、中山ミシン商事株式会社の中山菊雄代表取締役社長のコメントを交えて本稿を再構成した。(編集部)
▼約4年ぶりに市民の前に姿を現した千鳥ふみ子さん
▼中山ミシン商事株式会社中山菊雄代表取締役社長