函館の街から近くて、函館山山頂ほど賑わっていなくて、自然の波の音に包まれる静かな環境の観光スポット。それが立待岬(読み方:たちまちみさき)です。立待岬への行き方・楽しみ方を紹介します。
立待岬とは
陸繋島の函館山。その山麓の南東に突き出た岬が、立待岬です。函館山エリアで、一般の人が気軽に立ち入ることのできる最も南の岬です。函館山の裾野が海に落ち込む崖の途中、海抜約30~40メートルの平坦な地の上に、立待岬の駐車場と遊歩道と「はまなす公園」が整備されています。
地名は、アイヌ語の「ヨコウシ」の意味、つまり「待ち伏せするところ、ここで魚を捕ろうと立って待つ」にちなんでいます(諸説あり)。その意味を証明するかのように、立待岬の崖の下には釣り人がよく立ち入っています(崖下への通路は立入禁止)。立待岬周辺から海岸線を見下ろすと、荒々しい黒い岩々が見られますが、これは立待岬溶岩と呼ばれるもので、硬質安山岩です。五稜郭の石垣としても使用されました。
この周辺は現在、住吉町の住所表記で呼ばれていますが、江戸時代には立待岬から北は尻沢辺村(しりさわべむら、後に尻沢辺町)という漁村でした。海に突き出ている上に段丘上の地形ゆえに、昔から監視の面で重要な拠点となってきました。
18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、北方警備のために台場が築かれていた時期もあります(『蝦夷錦』には、新政府軍の軍艦に大砲を放ったことが記録されている。盛岡藩が固めた)。第二次世界大戦中、立待岬を含む函館山全体は要塞地帯法の適用地「函館要塞」となったため、市民の立ち入りが禁じられました。
立待岬は様々な小説や物語の舞台になってきました。1982年には森昌子が39枚目のシングル「立待岬」を発売しており、同年12月31日のNHK紅白歌合戦で歌われています。
立待岬の楽しみ方
景観
函館の景勝地である立待岬は、その景観を楽しむだけでよし。駐車場の周囲には遊歩道が整備されていて、どこから見ても素晴らしい景観が楽しめます。
南西を見れば、函館半島の函館山の裾野が海に落ちる断崖絶壁。その南端である大鼻岬(尾花岬)までの断崖絶壁を見ることができます。函館山の裏側に徒歩で立ち入ることは困難ですので、ここが南東側の突き当りになります(逆側の突き当り「穴間海岸」についてはこちらの記事参照)。天気が良ければ津軽海峡の向こう側に下北半島を望むことができます。
函館山の裏側ってどうなってるの?「漁船クルーズ」で未知の世界へ
北を見れば、大森浜と湯の川温泉に広がる函館市街を一望します。大森海岸の手前には住吉漁港。そのまま砂浜の海岸が続き、湯川漁港、湯の川温泉街へと至ります。その背後には、函館最高峰の横津岳(標高1166.9m)など函館の山々を望みます。
この立待岬を境にして、北海道第三の都市である函館の街並みと、人の営みがまったくない自然豊かな断崖の両方を見ることができるのです。
はまなす公園
広場になっている部分は「はまなす公園」。東屋や「立待岬の碑」(1978年(昭和53年)5月函館旅館組合により建立、字=函館市長 矢野康書)があります。
園内には、北海道の海岸線でよくみられるハマナスが植えられています。ピンクの花が見頃を迎えるのは夏です。かつて群生していたハマナスは厳しい風によって一時枯れてしまったので、1985年から植栽を続け、現在のように復活しました。いつしか「はまなす公園」と呼ばれ親しまれるようになりました。そのことを記した碑石が2001年9月に建立されています。
駐車場入口にある立待岬休憩所・売店「はまなす」では、ソフトアイスやドリンク、焼とうもろこし、焼きじゃが、ジャンボフランク、おそば、おでん、ほたて串焼き、つぶ貝などを提供しています。海岸沿いで食べる海産物の串焼きはたまりません。なお、夏期のみの営業ですので、ご注意を。
与謝野寛・晶子の歌碑
トレイ側の離れたところには「与謝野寛・晶子の歌碑」があります。ここ立待岬に建立されたのは1957年(昭和32年)8月。前年に函館図書館長岡田健蔵の十三回忌で結成された図書裡会が、岡田の功績をたたえるためにと、棒二森屋百貨店の援助を受けて建立しました。与謝野寛・晶子は1931年(昭和6年)に函館に来ています。
「濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土」寛
「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと」晶子
寛と晶子の作品が刻まれた石板が岩に埋め込まれていますが、二人の作品が仲良く並んでいます。晶子の短歌の中に岡田先生とあるのが図書館長 岡田健蔵のことです。寛の作品は、親友で石川啄木の義弟にあたる歌人 宮崎郁雨の名前を含む短歌が選ばれています。
立待岬への行き方
立待岬は、市街地の外れに位置するため、車で行くことをお勧めします。公共交通機関で行く場合、函館市電の終点「谷地頭」電停で下車し、徒歩約20分になります。
車で行く場合、一方通行路を利用することになりますので、往路と復路でルートが異なります。「立待岬」への案内板が出ているので、それに従って進みます。函館市営住吉町共同墓地の中の細い道を登っていきます。
登りきったら突然開けた立待岬の駐車場になります。右手の高台は大型バスなどの駐車場、左手に下ると一般車の駐車場です。約40台が駐車可能です。
帰りは、墓地の方向に進んでいけません。左に分岐する一方通行路を進みます。今度は林間コース。右手に住吉町の街並みを見下ろしながら、くねくねとした細道を進みます。途中、函館山登山道「七曲り入口」を通り過ぎます(付近には立待堡塁(1902年(明治35年))の遺構が遺されている)。一方通行路はそのまま函館公園の横を通って、函館山ロープウェイ山麓駅まで行くことができます。あるいは、函館公園の手前で右折して谷地頭電停に戻ることもできます。
なお、立待岬への道路は11月から3月下旬までの冬季は車両通行止めですので、冬季は徒歩で行くことになります。
石川啄木一族の墓
往路の函館市営住吉町共同墓地の終わりほど、左手に、「石川啄木一族の墓」があります。石川啄木は1907年(明治40年)5~9月に函館に住んでいたことがあります。1913年(大正2年)3月に遺骨は函館に移されますが、同年5月に妻の節子も夫のあとを追って死去しました。
この墓碑は、1926年(大正15年)8月に、義弟にあたる歌人 宮崎郁雨・函館図書館長 岡田健蔵によって、北の大森浜を望むこの高台に建立されました。将棋の駒のような形の墓石は、樺太にあった日露境界標石を模したものとされています。現在は二人の他、3人の子どもや両親など8人が眠っています。それで「一族の墓」となっています。