「知床の岬に はまなすの咲く頃……」から始まる歌詞。あの有名な
昭和の名曲「知床旅情」の出だしですね。
知床といえば「知床旅情」というように、知床の代名詞的存在になって
いる歌。知床が全国的に知名度があがったのも、この歌がきっかけの一つ
となっています。さて、知床旅情はどうやって生まれたのでしょうか。
知床旅情の生みの親とは?
すべては、作家・戸川幸夫さんが、1959年から知床を訪れたことに始ま
ります。その知床のたびの道中に立ち寄った番屋で、漁師から聞いた話を
もとに書いた小説が、「オホーツク老人」でした。
その小説が発表された後すぐ、これを映画化しようと考えたのが森繁久
彌(もりしげひさや)さん。1960年3月~7月にはもう早速ロケに入りました。
ロケ地はもちろん知床の土地、羅臼(らうす)と斜里(しゃり)でした(特に羅
臼中心)。
映画のタイトルは「地の涯に生きるもの」。主人公の老人役は森繁さん
が演じました。しかも知床としては初めての映画ロケということもあって、
羅臼は村(現在の羅臼町)をあげて、大々的に歓迎し、村長も全面協力を申
し出ました。
村人はエキストラとして参加しましたし、村の人たちとも交流の機会が
たくさんあったようです。ロケの終盤に差し掛かって、ある宴会の席に招
かれた森繁さんは、一曲、歌うように求められたわけですが、そこで時間
をかけてひとつの歌を作りました。完成したのは、ロケが終わって東京に
帰る前日だったとか。
歌が出来た、といって村長宅へ。森繁さんは、徹夜で新曲を村の人たち
に指導しました。宿泊地の栄屋(現在の栄屋ホテル)には、でかでかと詩が
かかれた紙が掲げられました。これが「知床旅情」のはじまりです。当時
は、「サラバ羅臼」という題名でした。
そして別れに際し、羅臼の皆さんにお世話になった、お礼として歌を贈
りたい、と、「サラバ羅臼(現在の知床旅情)」を歌いはじめました。見送
りの村民500人は、その歌を大合唱し、感動的フィナーレを迎えました。
知床旅情が広まっていく~
その後10年後、加藤登紀子さんが「知床旅情」を歌い、発売します(加藤登紀子「知床旅情」)。当
初B面だったこの曲はじわじわと売れ出し、71年にA面として再発売になる
ほどでした。これが爆発的な人気を呼んで、知床観光ブームへとつながっ
ていくのでした。
その後も、石原裕次郎さん、美空ひばりさんなど、多くの歌手たちに歌
われ続けています。最近では、知床出身のグループ雷鼓(らいこ)もロック
調でカバーして歌っています(雷鼓の「知床旅情」)。
「知床旅情」の発祥地とでもいうべき場所は、羅臼町市街地に近い「し
おかぜ公園」。歌碑がありますし、森繁さんそっくりの「オホーツク老人
の銅像」もあります。
2004年、知床旅情のメロディーは道路でも聞くことが出来るようになり
ました。「メロディロード」と呼ばれる道路で、標津町(しべつちょう)の
農道にあります(60kmで走るとメロディーが流れる)。
知床旅情。昭和の名曲。今一度口ずさんでみましょう。
※補足:2005年末に、第二の知床旅情と称される知床の歌が発売されました。そのタイトルは、「いとしき知床」。斜里町民による作詞、合唱、斜里町に関係のある人によるソロの曲で、羅臼町発の「知床旅情」に対抗する形となっての登場。こちらもあわせてお聞きください。