クテクウシ駅逓跡が唯一の面影―鹿追発祥の地で見つける下鹿追の歴史

鹿追町市街から南に約2㎞のところに、国道274号線と道道133号線の交点がある。交差点の周囲には農家が数件ある程度だ。しかしここ下鹿追はかつて賑わいが見られた場所だった。「鹿追発祥の地」と「クテクウシ駅逓跡」が2001年に建てられており、鹿追の歴史のはじめが詰まった場所でもあったのだ。

鹿追の歴史は下鹿追から始まった

鹿追の歴史は、明治時代の1902年にさかのぼる。山田松次郎氏がクテクウシ原野、現在の下鹿追、然別川に架かる紅葉橋下流付近に入地した。東京から来た山田さんだから「東京山田」。彼は当時そう呼ばれていた。その後、1906年の富山県江波団体など、移住団体等が入植していくにつれて人口も増加し、駐在所、郵便局、病院など街並みが形成されていった。

交通面では、1909年に清水町との間に道路が、さらに1911年に音更との間に道路が拓かれ、下鹿追は交通の要衝になった。大正時代に入って1913年、下鹿追地区に藤井九助氏が管理するクテクウシ駅逓が開設され、1918年にウリマク駅逓、1923年に東瓜幕駅逓、1925年に然別湖駅逓が続々と開設。交通の利便性が増していった。

▼クテクウシ駅逓は1913年開設


そして1921年4月1日に当時の音更村から分村し、クテクウシ(鹿を捕る処など諸説あり)を和訳した鹿追村が発足した。当時の戸数は852、人口は4448人だった。役場庁舎はクテクウシ1番地に設置され、1928年に拓殖鉄道・新得―鹿追間が開通すると、市街地は下鹿追から現在の鹿追町中心部に移動していった。クテクウシ駅逓は12年間営業したのち、1926年7月に廃止されている。そして今や、下鹿追に市街はない。

クテクウシ駅逓所跡が当時の面影残す

いまでは、先述のとおり、下鹿追の国道と道路の交差点角地には、当時のクテクウシ駅逓を模したデザインの「クックガルテン」が営業してきた。この建物にはクテクウシ駅逓をはじめ鹿追町内の駅逓の歴史写真や説明が残されている。鹿追のはじめであり、鹿追の歴史において重要な1ページを残した下鹿追で、にぎわっていた当時の面影を残すのは唯一これだけなのかもしれない。