北のひめゆり事件と九人の乙女


このページで紹介する写真は、道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)内の樺太関係資料館展示のものです。

 沖縄の悲劇「ひめゆり」に対して「北のひめゆり」。稚内市稚内公園にはこの事件に関した碑があります。「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」。これは「九人の乙女の碑」に刻まれた言葉で、近くで有名な「氷雪の門」が、樺太を背景にたたずんでいます。この事件は通常「真岡郵便電信局事件」と呼ばれていますが、どんな事件だったのでしょう。

終戦後のソ連軍 真岡侵攻

 1945年8月15日の終戦後、ソ連軍が樺太の真岡に侵攻しました。ソ連としては、釧路~留萌を結ぶ線以北の北北海道を手中にすることを求め、終戦後も樺太から南進をしていたのです。

 同年8月20日、真岡にソ連軍が上陸。町の中で激しい銃撃を加え、民間人が次々と犠牲になっていきました。引き揚げ船の出港ができる港でしたので、出港を待つ人たちも巻き込まれました。軍は自衛のため必死に抵抗。

 そんな中、その様子を伝え続けた人たちがいます。真岡郵便電信局の女性たちです。ソ連軍侵攻の中でも電話交換手の若い女性たちは残留して電話通信をしていました。


真岡郵便局での悲劇

 終戦後の8月16日、樺太では緊急疎開が始まりましたが、郵便局では局員20名に残留指示が出されました。19日朝には、非常勤務体制になり、夜間は上野班と高石班に分かれましたが、同日夜勤を担当したのは高石班11名でした。(ちなみに1階電信課では他に7名が勤務しました)

 そして8月20日の朝を迎えます。早朝6時前のソ連軍接近の緊急連絡により、真岡郵便局では電話交換手1名(志賀晴代)が加わって、12名が電話交換をしました。1時間後、ソ連軍が真岡沖に現れ、艦砲射撃を開始、真岡郵便局も被弾したため、2階電話交換所では重大な決断を迫られていました。

 そのようなわけで、高石班長がまず青酸カリで自殺し、可香谷班長代理など7名が青酸カリ(1人はモルヒネ)で次々自殺しました。渡辺は他の郵便局に自殺連絡してから自殺、残った電話交換手・伊藤も、樺太内の主要郵便局、さらには内線で電信課にも自殺連絡し、最後に松橋と伊藤の2名が自殺しました。

 これを受けて、電信課男性職員は境と川島の2名を救出し、郵便局本館に移動させました。その後、押し入れに隠れていた女性職員4人と別の生存者1名・岡田は真岡港の倉庫に移動しました。

 そのときいなかった局長は、数日後に現場に入り、白っぽい制服にもんぺを履いていた、交換台には弾痕があった、と証言しています。遺体は10日以上経過してから埋葬されました。

 結局、郵便局は1カ月後に再開するわけですが、しばらくして生存した局員はソ連人の部下として勤務することになりました。ちなみに、ソ連軍による樺太侵攻は同月25日の樺太全土占領まで及びました。

服毒自殺した9人の乙女
高石ミキ(24) 主事補・班長、青酸カリ所有、最初に自殺
可香谷シゲ(23) 主事補・班長代理、青酸カリ所有、続いて自殺
志賀晴代(22) 非番だったが緊急連絡により同日早朝から勤務
吉田八重子(21)
高城淑子(19)
沢田キミ(18)
渡辺照(17) 他局に自殺連絡し自殺
松橋みどり(17) 自殺連絡終了前に自殺
伊藤千枝(22) 自殺連絡後、最後に自殺
生存した3人の乙女
境サツエ 最年少、1階男性職員に救助される
川島キミ子 最年少、同上
岡田恵美子 別の日本人に救助される

真岡郵便局はいま……

映画化・ドラマ化

 自殺した女性9名は、1973年3月31日に勲八等宝冠章受勲。映画化されており、「樺太1945年夏 氷雪の門」が1974年(ただし当時は上映中止)、「霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち」と題するドラマが日本テレビにより制作されました。ただし、事実と異なる部分が多数あり、注意が必要。