西京(京都)、東の京である東京。そして北海道に北の京「北京(ほっきょう)」構想があったことは意外と知られていません。もちろんこのプランは頓挫しましたが、今でもその名残はいくつかあります。その北京計画地とは、旭川南部にある現在の東神楽町など神楽地域を中心とした一帯でした。(写真は旭川空港付近)
北京は上川離宮へ
この旭川・神楽地域に村が誕生するよりも前の明治22年(1889年)ごろ、岩村通俊と永山武四郎が上川地域への北京計画をもちかけました。永山武四郎は「上川に北京を奠く議」にて建議しています。これは、北海道開発を急速に展開したいとの願いも込められていました。
しかし、この北京設置計画は、北海道に東京に並ぶ首都機能を置くことはできないと、明治政府内閣法制局が難色を示しました。ということで、明治22年(1889年)12月28日、山県有朋内閣において、北京ではなく離宮(皇室別邸)として設置することが閣議決定されました。
そもそもなぜ上川なのか。それは上川(旭川)が交通の要所であり、対ロシアの警備の中心とすべきだとの認識があったから。北海道の開拓もここ旭川から進めるべきだということや、この地帯は水や肥沃な土壌に恵まれていたことから、選定されました。
明治23年(1890年)に、調査委員が訪れ、上川離宮の具体的な予定地が選定されました。それは、現在の旭川市神楽岡公園や上川神社近く。それにあわせて皇室御料地も設定されました。御料地は10552ヘクタール、離宮造営予定地は33ヘクタールとしました。
皇室御料地から民有地払い下げへ
離宮造成予定地は旭川市街地近くでしたが、付属皇室御料地(皇室所有地)は広大なものでした。現在の旭川市~東神楽町にまたがる、美瑛川と忠別川に挟まれた台地が皇室御料地として編入されました。南端は美瑛町境界線付近まででした。
この皇室御料地は西神楽地域を西御料地、東神楽地域を東御料地と呼んでいましたが、御料地にあわせて地名も付けられていきました。今もその名残があります。この地域には以下のような地名がずらりと並んでいます。
西神楽(にしかぐら) : 駅名
東神楽(ひがしかぐら) : 自治体名
御料(ごりょう)
西御料(にしごりょう) : 駅名
瑞穂(みずほ)
西瑞穂(にしみずほ) : 駅名
聖野(ひじりの)
聖台(せいだい)
聖和(せいわ)
西聖和(にしせいわ) : 駅名
東聖(とうせい)
千代ヶ岡(ちよがおか) : 駅名
八千代ヶ岡(やちよがおか)
栄岡(さかえおか)
現在、西神楽は旭川市、東神楽は東神楽町ですが、西神楽一帯を貫くJR富良野線には駅名にも御料地の名残が見られます。ちょうどこの鉄道路線両側が美瑛川と忠別川の間に挟まれた地域です。ちなみに、神楽という地名はアイヌ語の意味も多少含んでいます。
しかし、一方で、北海道の中心であるはずの道庁のある札幌では反対運動が起きました。明治25年(1892年)に第4代北海道長官北垣国道が反対したのをきっかけに、明治26年(1893年)には「上川離宮設置意見書」にて札幌近郊に離宮を設置すべきだとの意見が出されています。
こうしたことから離宮造成は実現せずに、結局、民有地として払い下げられることになりました。御料地は神楽村であり、後に一部は東神楽として分立して現在に至りますが、本家の神楽は旭川に編入されました。