100年前の小樽は道内第二の都市だった?あの観光名所は建設中だった?

▼天狗山展望台から望む小樽市街

創立100周年を迎える北洋銀行の歩みを紹介する100周年連載。第二回目からは、特に結びつきの深い道内都市と北洋銀行について紹介します。

北洋銀行は、ちょうど100年前の1917年に小樽で北海道無尽株式会社として発足しました。どのような時代背景の中、産声を上げたのか、今回は、大正時代の小樽にタイムスリップしてみましょう。

小樽は道内三大都市に数えられていた!

1600年代、松前藩の場所請負制によりオタルナイ場所が開設され、ニシン漁などで活況を呈していた小樽。勝納川流域に街並みが形成され、1865年に江戸幕府によりオタルナイ場所が廃されて村並(本州の村と同様の自治体)となった後、1899年には札幌・函館とともに区政が施行されて小樽区が成立しました。

明治時代から大正時代にかけて、小樽は道内屈指の人口を擁しました。1920年の第1回国勢調査によると、小樽区の人口は約10万8千人で、札幌区の約10万2千人をわずかに上回り、函館区(約14万5千人)に次ぐ道内第二の都市(全国13位)でした。


(出典:1920年国勢調査)

あの有名観光名所も100年前に生まれた!

開拓期以来、漁港・商港として整備された小樽港は、北海道西部の有力な港湾でした。1880年に道内で最初の鉄道「官営幌内鉄道」手宮―札幌間が先行開業。それに伴い桟橋が築かれ、幌内から運ばれてきた石炭の積み出しを行うようになりました。

特別輸出港および国際貿易港に指定された小樽港では、港湾整備も進められました。明治末期の1908年には、当時の最新技術を駆使した「小樽港北防波堤」が難工事の末完成。国内初の本格的なコンクリート製外洋防波堤といわれており、100年以上経過した今も小樽の港を守っています。

▼100年以上前に完成し今も現役の小樽港北防波堤

小樽港の整備は防波堤だけではありません。沖合いに停泊した船舶から、はしけを使って直接倉庫まで積荷を運ぶことができるよう、勝納海岸の沖合いを埋め立てる計画が立てられました。

この過程で生まれたのが、観光名所として親しまれている小樽運河です。1914年から1923年にかけて第一期工事が行われ、延長1,324m、幅40mの運河が完成しました。

一般的には海岸を埋め立てて陸続きにしますが、小樽では沖合いを埋め立てる方式を国内で初めて採用。小樽運河が緩やかにカーブしているのは、当時の海岸線の名残なのです。小樽運河を訪れる機会があれば、歴史的な視点で楽しんでみるのはいかがでしょうか。

▼有名な小樽運河も100年前は建設中だった

”北のウォール街”が形成

小樽は国際的な港湾都市として成長したこともあり、明治時代から大正時代にかけて多数の銀行、商社、海運業、倉庫業などが進出。大正末期には、色内通りを中心に25もの銀行があり、「北のウォール街」と呼ばれるようになりました。

いまや道内最大手の銀行となった北洋銀行も、経済の最盛期を迎えようとしていた1917年に北海道無尽株式会社(翌年、小樽無尽株式会社に商号変更)として設立されたのが原点。函館で銀行や質店を経営していた柿本作之助氏が、北海道経済の中心は小樽に移りつつあると見て、小樽の財界有力者の賛同を得て創立したのでした。

▼今も残る小樽無尽株式会社旧本店(小樽市指定歴史的建造物)

国際貿易の拠点である小樽港の港湾整備が進められ、小樽運河が建設中だった時代。道内第二の人口を擁し、北海道経済・金融の中心として繁栄していた時代。そんな活況に満ちた時代に産声を上げた北洋銀行は、まさに小樽とともに発展してきたといえるのです。

参考文献:『北海道の地名』『小樽市史』