【石狩市】 石狩市北部の浜益地区。美しい海岸線が続く小さな街からは、この地の象徴ともいえる秀峰「黄金山(こがねやま)」を望む。山々の中で一つだけ突き出している富士山のような形をした山で、一度その姿を見たら忘れることのない。もともと和人が砂金を採りに入った時代に命名されたが、その姿から「浜益富士」や「黄金富士」と呼ばれている。2009年には国の名勝に指定された。
黄金山は、標高739.1mと比較的低い。530万年前から180万年前の火山活動で岩脈が貫入、周囲の地層が風化・浸食を受けて形成されたとされている。黄金山は初心者でも登山できる。頂上からは暑寒別連峰、晴れていれば積丹半島まで一望できるという。登山道入口に行く途中には2000年に環境庁巨樹・巨木林調査イチイの部で全国第18位になった「黄金山のイチイ」(高さ18m・樹齢1500年)があり名所となっている。
1706年、松前藩によりヘロクカルシ(浜益)に益毛(マシケ)場所(1785年~ハママシケ場所)が開設され鰊漁が開始されて以来、浜益の住民はこの秀峰・黄金山を毎日見ながら生活を続けてきた。その歴史を垣間見ることのできるスポットが浜益市街地の近くにあるが、その存在をご存じだろうか。それが国指定史跡「荘内藩ハママシケ陣屋跡」(1988年5月17日指定)だ。
ハママシケ場所は松前藩、幕府直轄地、津軽藩による警備、再び松前藩所管、再び幕府直轄地を経て最終的には庄内藩が警備を命ぜられた。江戸時代の1859(安政6)年、江戸幕府から西蝦夷地警護を命じられた荘内藩はこの地に陣屋を築き、奉行所、寺、神社、長屋などを建てて193人を配置、集落を形成することとなった。現地調査は1960年に家老松平舎人を総奉行として行い、この調査書をもとに2代目総奉行酒井玄番了明が赴任、本陣をここハママシケ(浜益)に設けたという。戊辰戦争になると警備の役目が終わり、1868年に引き揚げることとなる。その期間はわずか7年であった。
その跡地は現在も残っていて、ほぼ草地ながら、1971年に開村100年記念事業で復元された大手門、周囲の郭、井戸跡の標柱などを見ることができる。案内板もなくわかりにくい場所にあるため辿り着くのは困難を極めるが、川下神社の横の細い道を少し登ったところの小高い高台にあり、海岸沿いの浜益市街地を一望できる場所だったことが分かる。北の地にやってきた庄内藩の人たちは浜益の海岸と富士山に似た黄金山を見て何を思ったか。訪れる人は皆無に等しいが、歴史好きな人なら訪れておきたい場所の一つだろう。浜益の歴史を感じ取れるスポットとしてオススメしておきたい。