アイヌ語由来の地名が多く、簡単に読むことのできない、いわゆる「難読地名」が多い北海道。中でもユニークな難読地名の一つが、十勝管内幕別町にある「白人」という地名です。
「白人」だからといって、白人が多く居住しているわけではありません。そもそも読み方が「はくじん」ではないのです。「しろひと」でも「はくと」でもありません。では、何と読むのでしょうか。
なんと、これで「ちろっと」と読ませるのだから驚きです。すぐには読めませんね。なぜ、このような地名が付いたのでしょうか。
「白人」の由来と歴史
「白人」と書いて「ちろっと」と読む地名の由来は、アイヌ語の「チル・オッ・トー」、つまり「鳥が多くいる沼」をそのまま読ませたものです。それに「白(ちろ)」「人(っと)」と漢字をあてたものとされます。
歴史を紐解くと、古くはアイヌコタン「チロットコタン」が周辺一帯に広がっていたことがわかっています。古文書によっては「チロト」「シロトウ」「ジロトウ」として記録されています。江戸時代の安政4年の文献『入北記』には7戸・29人(男13人・女16人)という記録が残されています。
行政地区としては、十勝国時代の1869年(明治2年)8~6月の間にはすでに「チロット」という地名の記録がみられ、中川郡白人村と表記されています。面積185万坪の白人原野には、1871年(明治4年)の駿河静岡藩支配下ではアイヌ6戸・40人(男18人・女22人)がいたと記録(町教育委員会の資料でも1872年(明治5年)に6戸)。
1880年(明治13年)に開墾開始。その後、佐賀県から移住してきた岩永さんらがこの肥沃な土地で農業を開始し、1893年(明治26年)頃から和人が増え始めました。団体移民としては、1896年(明治29年)に岡山県から2団体が最初に入植したほか、1898年(明治31年)までに60戸以上の単独入植がありました。
その白人村は、1906年(明治39年)4月1日に幕別村、止若村(やむわっか)、咾別村(いかんべつ)、別奴村(べっちゃろ)とともに合併。二級町村の幕別村となり、幕別村大字白人村になります。その前年の人口は、238戸・1,070人(道戸口表)でした。
その後、1944年までは白人村という大字名が続いていましたが、旧村にちなむ大字5地区を再編することに。大字白人村は栄、日新、千住、相川、豊岡、古舞の6地区に再編、白人という地名は行政地域の地名から消えることになりました。
現在の「白人」
「白人」と書いて「ちろっと」と読ませる地域は、現在の幕別町北東部、札内エリアに近い字千住、字豊岡、字日新が主に相当します。前述の通り住所表記からはなくなってしまいましたが、地名発祥地である十勝川に近いエリアに「白人」の名残が見られます。実は、国道38号や国道沿いのスマイルパーク(百年記念ホール)は旧白人村内にあります。「ちろっとの森」もここにあります。
まず、国道38号沿いに「白人公園」があり、「白人尋常小学校跡」があります。その奥には「白人小学校」(幕別町札内青葉町185)があります。1897年(明治30年)私立教育所白人学校として開校した学校です。帯広のベッドタウン札内地区に隣接することもあり、白人小学校は児童数が200人ほど(2020年現在)と、町内でも多いほうです。
広報誌などで「十勝管内の運動会スケジュール」を見ると、「6月13日・札内(札内北・札内南・白人)」と列記され、「小学校」を抜かして漢字だけ並べると不思議な感じがします。
札内南大通沿いには、十勝バス幕別線の「白人小学校前」バス停が立っています。国道沿いには「白人小学校」の看板も設置され、ご丁寧に「ちろっと」とふりがなもふられていました。
国道沿いの白人公園には「白人中学校」もかつてありましたが、札内中学校に統合されて1975年に閉校しています。白人中学校跡が、ひまわりの家前にあります。
旧途別川流域、根室本線旧稲士別駅近くには小さな「白人墓地」があります。チロットコタン慰霊碑はここにあります。
農業生産物では、漬物用として使われる「白人大根(チロットダイコン)」が地元では知られています。また、白人産のながいもも特産品。さわやかな甘味があって、こしがあるねばり。気候面で恵まれた十勝平野だからこそできた良質のながいもです。
このように、「白人」の名前が地元ではいまだに使われているのです。アイヌ語の地名が消えることなく名前として残っていてくれるのはうれしい限りです。
「白人(ちろっと)」の名前の例
- 「幕別町立白人小学校」(ちろっとしょうがっこう)
- 十勝バス「白人小学校前バス停」
- 「白人公園」(ちろっとこうえん)
- 「ちろっとの森」
- 「白人川」(ちろっとがわ)
- 「白人神社」(ちろっとじんじゃ)
- メン川・十勝川合流地点に「白人樋門」(ちろっとひもん)
- 有限会社「白人平原牧場」(ちろっとへいげんぼくじょう)
- 「白人サッカー少年団」
- 帯広石油販売・JOMO「白人ステーション」(ちろっとすてーしょん)[廃]
- 「白人墓地」「白人コタン慰霊碑」
- 白人公園内「白人尋常小学校跡」
- ひまわりの家「白人中学校跡」
なお、昭和時代に活躍したコタンの指導者・吉田菊太郎(1896-1965)は、この地出身でアイヌのリーダー的存在でした。また、白人地区に白人古潭矯風会や白人古潭納税組合、白人共栄甜菜組合を設立するなど功績を残しました。千住地区の東側には、彼が収集してきた文化財を保存する「蝦夷文化考古館」(写真)があり、チロットコタンを中心としたアイヌの歴史を現在に伝えています。
住所表記からは消えてしまった「白人」ですが、あちらこちらにその痕跡が残っているので、幕別町札内地区を通る際は「白人(ちろっと)」の名を探してみてはいかがでしょうか。
参考文献:『幕別町史』『幕別町百年史』『北海道の地名』ほか
(※本稿は2008年8月2日付の記事、および2013年11月13日付の記事を再編集したものです)