なぜ駅舎が2階に?日本最北の電車の歴史を今に伝える旭川追分駅舎

【旭川市・東川町】 旭川には、2階に駅舎がある場所が存在する。といっても、高架ではない。線路すらないから列車も来ない。それもそのはず、いまや存在しない日本最北の電車の駅舎だったものなのだ。

それは旭川市東光地区(東光5条7丁目、一条通(道道1160号線)沿い、旭川千代田郵便局向かい、[地図])にある。1階には「居酒屋おやじ」「スナックまちこ」と書かれており、夜のお店が入居してきた。その上に乗っかる形で、木造建築物がある。茶色の木板、赤いトタン屋根、白い窓枠と柱が特徴的な建物だ。

よくよく見てみると、壁に「旭川追分」と書かれた駅名標が立てかけており、駅舎であったことを示している。建物には「スナックすず子」と赤い看板が掲げられており、長くお店として活用されてきたようだ。

旭川電気軌道の駅舎だった

今は存在しないが、かつて旭川市内を日本最北の路面電車が走っていた。旭川追分駅はその旭川電気軌道の駅であった。ルートは、4条通り18丁目の旭川四条駅から始まり、豊岡4条2丁目付近(現在のアモール駐車場)にあった追分駅(旭川追分駅)で、旭山公園までの東旭川線と東川までの東川線に分岐していた。総延長は21.6kmに及んだ。

▼旭川電気軌道のルート(GoogleMap)

▼旭川追分駅のあった場所は駐車場に

営業開始したのは昭和初期の1927年2月のこと。東川線の追分~十号間が先行開業し、1か月後には東川まで延伸した。一方の東旭川線は、1929年12月に旭川追分から東旭川市街(東旭川村2丁目)間が開通、1年後に旭山公園まで延伸した。線路はほとんどの区間で道路上に敷設されていた。

旭川電気軌道は郊外電車として、東川・東旭川と旭川中心部を結ぶ重要路線となり、通勤や通学で利用されたほか、貨物輸送も担った。しかし、自動車の普及という時代の波に押され、1972年12月31日の運行をもって営業を廃止したのだった。

今も残っている数少ない旭川電気軌道跡

当時の面影は今ほとんど残されておらず、東川駅のホーム跡、東旭川線の小股川の短い鉄橋跡、東川町郷土館と東旭川公民館の車両展示にとどまる。

▼東川駅のホーム跡と碑石は倉庫群の中にある。近くの東川町郷土館には展示物も


▼東旭川線の小股川の橋梁跡

▼東旭川公民館に屋外展示されているモハ1001の車両展示。1970年12月15日改正の運賃表ボードもある。


▼東旭川公民館に移設された役場前駅名板。東旭川線終着旭山公園のあった場所はバスロータリーに

そして、当時の駅舎で今も残されているのが、1972年の廃止後、なぜか約1km東川寄りの2階に移築された旭川追分駅だったのである。

旭川追分駅は分岐駅として重要な駅で、駅舎本屋はホーム中央にあったという。今も残る駅舎は手入れがされず老朽化が進んでいるが、凝った装飾が施されていたことがみてとれる。庇の付いている部分が出入口として使われていた。

旭川電気軌道の数少ない跡地を巡ってみてはいかがだろうか。