【陸別町】日本一寒い街として知られる十勝北東部の陸別町。中心街から徒歩圏内には、一年中雪山(?)がかぶっている真っ白い場所があるという。もしや、日本一寒い街だから夏でも雪がとけきらないのか―?その謎に迫るべく、陸別市街地から利別川を越えた高台にある国指定史跡ユクエピラチャシ跡を訪ねた。
国指定史跡ユクエピラチャシ跡とは
そもそも陸別町に国指定史跡のチャシ跡があったということすら知らない人が多いに違いない。そこで、ユクエピラチャシ跡とは何なのかから説明を始めたい。
チャシとは、13~18世紀のアイヌ文化期に砦(とりで)として築かれたもの。道内各地、特に道南から道東にかけてチャシ跡が多く点在しており、500か所以上の跡地が道内では確認されている。そのほとんどが小高い丘や山の上に築かれており、河川や湖沼や海岸沿いといった、生活に欠かせない水辺の近くに築かれていることが多い。
陸別町にあるユクエピラチャシ跡も同様で、利別川右岸の陸別市街地を見渡せる、標高約250m・比高約45mほどの小高い丘の上に築かれた。築かれたのは今から約450年前、16世紀中期頃。盛土を含めて長軸128m・短軸48mというその規模は道内最大級とされ、1975年に町および道指定文化財、1987年9月8日に利別川を含む一帯73,997.86m2が国指定史跡となった。「ユクエピラ」はアイヌの言葉で「シカ・食べる・崖」という意味があるという。
白いチャシの正体とは?
このチャシ跡の最大の特徴は、何といっても白いこと。丘の斜面一帯を白いものが覆っているのだ。雪山が残っているのかと思われがちだが、実はこれ雪山ではなく、白い火山灰である。
遺跡は3つの郭(くるわ)が連結した複雑な形をしており、それらの外側を取り囲む大規模な盛土は、壕を堀りあげた際に出る白い火山灰とロームを丁寧に重ね、表面を白い火山灰で覆っている。現在みられる白いチャシはその盛土を復元したものだが、当時もそのような白さが際立ったチャシだったに違いない。
同チャシ跡は、その規模と築造の計画性から、当時この地に有力な指導者がいて大人数で築いたことを示しているとされる。陸別に伝わる英傑「カネラン」にちなみに、「カネランチャシ」とも呼ばれているそうだ。郭の中では柱の穴と溝で構成する柵の跡も確認されたほか、鉄器・骨角器など10万点以上の遺物が出土している。その8割が鹿の骨で、名前の通りシカが主な食糧源だったことを示している。出土品は陸別町公民館や関寛斎資料館に所蔵展示している。
▼関神社跡や関寛翁碑もあり、陸別の街を一望できる
断崖の崩落で失われてしまった北東部分
陸別町教育委員会によって2002年度から2008年度にかけて発掘調査及び遺跡整備・復元が行われ、今でも自由に遺跡を見ることができる。ビューポイントとしては、チャシ全体像を見ることができる正面、近くまで行くことができる園路終点とがある。
近づいてみると、堀によって3つの郭(くるわ)にわかれていることが確認できる。中央の郭が最大で長軸約50m、次いで北側にある長軸約30mの郭、南側にある長軸約20mの郭。各々が楕円形を描いているが、川沿いの断崖は崩落のため半分に欠け、現在はその断崖に沿うように安全柵が設けられている。また、それぞれの郭を囲むように壕(堀・溝)があるほか、中央部にも浅い壕が確認されている。
一部が失われてしまったとはいえ、道内屈指のチャシ跡であるのは間違いない。チャシとは何なのか知るのに最適な遺跡であるとともに、火山灰で覆った白いチャシという特異性があるので、是非一度訪れていただきたい。
▼国指定史跡ユクエピラチャシ跡
所在地:陸別町トマム2 [地図]
国道242号線、陸別町市街地南端・陸別基線で道道502号線に入り、新町団地の交差点をそのまま直進。林道を進みチャシ跡の看板を右折し砂利道を上る