戦時中、道内も空襲を受けた

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アメリカ軍による北海道空襲は1945年7月14日・15日にかけて行われました。攻撃を行ったのはアメリカ海軍第38任務部隊で、13隻の航空母艦を率いて北海道にやってきました。部隊は道南・登別市幌別沖合に展開し、そこから延べで3000機以上の航空機を発進させ、道内の主要都市を中心に爆撃を行いました。

米軍は、基地のあった北千島への供給を断とうと、根室付近の輸送船を次々攻撃。函館も本州との青函連絡船を中心に攻撃にあいました。この航路の損失は、関東の工場へ運ばれていた燃料である石炭供給ストップを意味し、敗戦が決定的になったと言われています。

室蘭の日鋼室蘭は、民間で最新鋭高射砲を生産できる国内唯一の工場であるため重要攻撃対象になっていました。それで、空襲に加え、沖合の船舶の撃沈、翌日に第34.8.2任務隊の合計13隻により室蘭艦砲射撃を加えました。1000発以上の砲弾が工場・住宅に着弾したと言います。

特に被害が甚大だった地域(死者100人以上)
根室:15日、中心部・港湾を攻撃、7割の2457戸焼失、369人死亡の壊滅的被害
釧路:14・15日、1618戸焼失倒壊、192人死亡
室蘭:14日空襲、15日艦砲射撃、436人死亡
函館:14・15日、青函連絡船を中心に攻撃、350人死亡

アメリカの記録による予定空襲地
函館、室蘭、苫小牧、小樽、旭川、釧路、根室、帯広、森、長万部、白老、浦河、恵庭・島松、岩内、深川、下富良野(現在富良野)、上富良野、士別、池田、留萌、妹背牛、白糠、川合、勇留島、津軽海峡、内浦湾、石狩湾、根室湾、積丹半島、襟裳岬、弁慶岬。

実際の空襲地(現在の市町村名で表記)
・道南
函館市(青函連絡船・南茅部・戸井・椴法華)、北斗市(上磯)、長万部町、八雲町、森町(本町・砂原)、鹿部町、木古内町、知内町、福島町、松前町
・後志
小樽市、岩内町、積丹町、古平町、余市町、神恵内村、共和町、寿都町
・日高胆振
室蘭市、伊達市、登別市、苫小牧市、白老町、厚真町、安平町(追分)、むかわ町(鵡川)、日高町(門別)、新冠町、新ひだか町(静内)、浦河町、様似町、えりも町
・石狩空知
札幌市(手稲・白石・丘珠空港・東苗穂国鉄基地)、石狩市(石狩本町・生振・花畔~花川・厚田・浜益)、江別市(江別本町・大麻)、千歳市、岩見沢市、由仁町
・上川留萌
旭川市、富良野市、留萌市、増毛町、美瑛町、比布町、鷹栖町
・オホーツク
網走市、清里町、小清水町、斜里町
・十勝
帯広市、音更町、大樹町、広尾町、本別町、更別村、士幌町、幕別町、池田町、浦幌町、豊頃町
・釧路根室
根室市、釧路市(釧路・音別・阿寒)、釧路町、白糠町、標茶町、厚岸町、中標津町、浜中町、別海町、標津町

道内では2日間にわたり70市町村で空襲の被害にあいました。他都府県よりも被害市町村数は多かったようです。わかっているだけでも合計約2000人が死亡しました。負傷者は1000人近く、被害戸数は6600戸にのぼりました。

道内で最大都市だった札幌は中心部への空襲は免れました。また、千歳空港も大きな被害はありませんでした。これには米軍の戦後処理で役立てるためという意図がありました。

一方で、アメリカが攻撃する予定だった地と実際に攻撃された地が違うこともあり、網走、本別、厚岸はその一例です。本別がなぜ攻撃されたのか。雲が多く間違った、地形が帯広に似ていた、鉄道網が池田に似ていたなど諸説あります。

このときに空襲を受けなかった地域は留萌管内北部、上川管内北部、宗谷全域、オホーツク管内北西部、空知管内北部、檜山全域でした。空襲を受けながらも死者がゼロだったところもあり、人的被害がなかったのは岩見沢、木古内、登別、白老、神恵内、共和、余市、千歳、由仁、追分、鵡川、浜益、鷹栖、清里、斜里への空襲でした。