1926年5月、稚内の南に位置する幌延村沙流(現在の豊富町)で温泉が噴き上がりました。以来、油温泉の出る日本最北の温泉郷「豊富温泉」として知られるようになり、2016年に90周年を迎えることとなりました。最盛期ほどの賑わいは見られなくなったものの、近年、若い力で温泉街を盛り上げようと試みがなされています。豊富温泉の歴史を紐解き、温泉街活性化を促す取り組みを紹介します。
1926年5月17日夜に突然噴き上がった温泉
時代は、大正時代にさかのぼります。沙流(現在の豊富町)に入地者がまだない時代から、現在の温泉地域は各所にガスが噴出していたそうです。開拓が進むと、地下資源の将来性に着目した業者が調査で訪れるようになります。
1924年には、村井鉱業株式会社が石油試掘のため現地調査をはじめ、翌年に試掘を開始しました。そして1926年5月17日夜半、地下960メートルに達すると、大きな音とともに天然ガスと温泉が噴出しました。温泉は43度で、現在と異なる無臭透明。噴き上がった温泉は高さ30メートルに達し、一日約47リットルを噴出したと記録されています。
1927年には、温泉井近くに茅葺小屋と男女混浴の木槽が設置され、近隣住民が入浴するようになります(1日10銭、1回5銭)。また、同社から所有権を譲り受けた三名によって、現在の大師堂境内に浴場を新設。1933年には天塩電燈株式会社社長中田鶴吉氏が豊富温泉の権利を買収して豊富温泉株式会社を設立、豊富温泉の改善を図るようになりました。(同社は戦時中にガスを燃料として温泉水を煮詰めて塩を製造する製塩工場も開設したことから温泉化学工業株式会社に改称、1958年に町が買収し町営化しました)
道議会議員も務めていた同社社長の中田氏は、豊富温泉開発に多大な貢献した祖といえます。温泉が噴出した当時から道北温泉郷の建設を考えていたといい、温泉開発に献身的な努力を傾けました。温泉に旅館が建ち始めたのも、中田氏の働きかけがあったから。豊富市街に住んで材木屋を営んでいた川島末吉氏は、中田氏から「温泉街で宿やってみないか」と誘われ、1927年に温泉宿を開設。今も続くこの「川島旅館」こそ、温泉街で最初に営業した温泉宿でした。その後、菊池旅館、松尾旅館(稚内の支店)、井上旅館(同)などが、次々と温泉旅館を開設していきました。
▼源泉井戸。場所は現在と同じふれあいセンター横
▼ニュー温泉閣(現在)の裏山から撮った温泉街。左に見えるのがふれあいセンター。火事で焼けて新しくした後だとか
▼今の道道は川でした。橋はちょうど川島旅館の裏あたりでヤマメがたくさん釣れたとか
▼1957年の温泉街。ふれあいセンター側から北側を望む
▼1960年の温泉街。ふれあいセンター側から北側を望む
▼1965年頃の豊富温泉
国内唯一の油温泉は火傷・皮膚疾患に効果あり!
このように突然の噴出をきっかけに温泉街が形成された豊富温泉ですが、同温泉の特徴といえば、油分を含んでいること。国内唯一、世界的にも珍しい油温泉です。これは井戸から石油や天然ガスとともに湧出していることによるものだそう。源泉は4か所あり、泉質は、(1)ナトリウム – 塩化物泉(弱アルカリ性高張性低温泉)、(2)ナトリウム – 塩化物・炭酸水素塩泉(弱アルカリ性高張性高温泉)の二種類があり、いずれも黄濁しています。
温泉開設当初に温泉株式会社が道立化学工業試験場などに温泉水の分析調査を依頼したところ、「ラジウムイマナチオンを有し、放射機能は世界六位で硫黄及び食塩を含有、筋肉、関節の疾患、慢性皮膚病、慢性婦人科疾患、火傷を始め諸病に効果あり」(豊富町史原文まま)と回答。こうして早くから温泉の効能が認められるところとなりました。
とりわけ火傷は、病院にかかるよりもきれいに治ると初期の頃から言われていました。豊富町の山奥に「日曹炭鉱天塩砿業所」(1937年~1972年)があり、坑内で火傷を負った作業員たちが豊富温泉を訪れては傷を癒していきました。また、痔にかかった人、漆かぶれや虫刺されにも効く温泉として親しまれてきました。
さらには、油分に含まれるタールが抗炎症作用を発揮するそうで、皮膚疾患にも効能が認められています。1990年代初頭には、道内の尋常性乾癬の人たちの間で温泉の効能が口コミで広まり始め、2000年代に入るとアトピー性皮膚炎の人たちの間でも知られるようになりました。
1998年と2003年には道立衛生研究所の研究で、アトピー性皮膚炎や尋常性乾癬に対する効果を認める報告がなされ、2015年には温泉療法医が推薦する薬効高い泉質を持つ温泉地として名湯100選に選出。全国各地から皮膚疾患の療養で湯治に訪れる人たちが年々増加しており、療養の手段の一つとして豊富温泉を薦める医師も増えてきているそうです。
活気を取り戻しつつある豊富温泉
最盛期には温泉街に飲み屋街もあり、大人数のツアー客も訪れ、ほぼ毎日宴会が開かれるほどの賑わいがありました。最大12あった温泉旅館も、現在は3件に減少。観光客は1992年頃をピークに減少し、140人ほどいた温泉地区の人口も、2002年頃から12年間で4割減少しました。しかし、最近はその温泉街に変化がみられるようになってきているのだとか。2009年頃に人口減をとどめ、以来、横ばいで推移しているというのです。
その理由の一つは若者たちの移住。10年程前まで温泉地区は年配者がほとんどでした。しかし、前述の通り、近年は皮膚疾患の療養目的で湯治に訪れる人が増えつつあり、そのうち20代~30代の若い層がそれぞれ全体の25%、29%と突出、30代以下だけで75%を占めています。若い湯治客の中には、リピーターから移住者となり、温泉振興の取り組みに携わるようになった人も少なくありません。20~40代の移住者(近隣町村含む)は50名以上に上るといいます。
温泉街に帰ってくる若者たちが増えると、その若者たちが中心となって温泉街を活性化させようと、「豊富温泉はじめは6人衆」「いっぷく会」といった若手グループを結成。2007年からは「豊富温泉雪あかり」、2011年からは音楽系イベント「トヨトミサイル」を開催し、豊富温泉がたびたびメディアに登場するようになっていきました。
▼豊富温泉地区で毎年開催されている「トヨトミサイル」
このほかにも、豊富温泉スイーツの開発、豊富温泉コンシェルジュ・デスクの新設、豊富温泉ポータルサイトの開設、カーシェアリングサービスの開設など環境づくりも進めてきました。このような様々な取り組みのかいあって、温泉街には徐々に人の姿がみられるようになり、地元では「温泉街を歩く人が増えた」と喜びの声もあがっています。
▼川島旅館が開発した「湯あがりプリン」
東京で行った知名度調査では92%の人が豊富温泉を知らなかったそう。「この結果はつまり伸びしろがあるということ」と前向きにとらえるのは、今夏全面リニューアルオープンする川島旅館の三代目若夫婦。若者主導で改善を行い、盛り上がりを見せつつある日本最北の温泉郷・豊富温泉は、これからどう変わっていくのかとても楽しみ。今後もますます目が離せません。
<参考文献>豊富町史、豊富温泉湯治ガイドブック
<取材協力>川島旅館
<写真提供>川島旅館、木村広治氏