道内各地の特産品や地場産業の話題をお伝えする連載「北洋銀行のこの街紹介」。今回は、宗谷郡猿払村からお届けします。
今や北海道内でも有数のホタテ水揚げ量を誇る猿払村ですが、順風満帆だったわけではありません。かつては資源が枯渇し、漁業が困窮した時代があったのです。そこからどのように立ち直っていったのか、また、現在のホタテ漁の様子なども含め、猿払村の歴史を紐解いてみましょう。
「獲る」漁業から「育てて獲る」漁業へ
▼漁師たちの朝は早い
オホーツク海に面した猿払村は、村としては北海道一面積が大きく、日本一北にあります。人々は明治時代から魚貝を獲って生活の糧とし、オホーツク海の豊かな恵みが村を潤してきました。猿払村漁業協同組合が海辺に建てた「いさりの碑」には、こんなふうに刻まれています。
「鰊の郡来で海は乳白色になり(中略)帆立貝は海の底に幾層にも重なり合っているのではないかと錯覚を起こさせる位生棲していた」
▼漁港に停泊するたくさんのホタテ漁業船
昭和10年代にはホタテ水揚げ量日本一を誇るほどになりましたが、漁船の大型化や乱獲などにより、その後は減少の一途をたどります。村は困窮し、やがて他の地域から「貧乏村」などと揶揄されるほどにまで衰退しました。
そんな中、1961(昭和36)年に猿払村漁業協同組合の組合長に選出された太田金一氏は考えました。「獲る」一方だった村の漁業を「育てて獲る」漁業へと転換させるべきだ、と。
▼「育てて獲る」漁業へと
太田氏は研究者や専門機関から指導を受けながら、ホタテの増殖事業計画に奔走します。そして1971(昭和46)年、猿払村漁業協同組合は、10年計画によるホタテ稚貝放流事業を開始したのです。巨額を投じることに不安視する組合員もいましたが、太田氏はこの放流事業に村の復興を賭けたのでした。
▼復活した現在のホタテ漁
1974(昭和49)年、とうとう水揚げ再開にこぎつけました。そこから猿払村の漁獲量は驚異的に回復し、見事な復興を遂げました。もちろん過去の教訓を活かし、育てて獲る漁業は続けられています。
先に紹介した「いさりの碑」は、そんな精神を忘れず、後世に受け継ぐために1981(昭和56)年に猿払村漁業協同組合によって建てられたものです。その最後は、こう締めくくられています。
「人間は神々と力を競うべきではない/人間は自然の摂理に従うべきだ」
現在の猿払村のホタテ漁は
▼大きくて身がプリプリのホタテ
ホタテ漁が盛んな北海道内でも、有数の水揚げ量を誇るまでになった猿払村。今や水揚げは日本一と言われています。猿払村と聞けば、真っ先にホタテをイメージする人も多いことでしょう。では漁獲されたホタテは、どんな工程を経て市場へ出ていくのか、猿払村漁業協同組合ほたて総合加工場にお邪魔しました。
▼広い敷地に建つほたて総合加工場
まず案内されたのが、原貝庫。水揚げされた大量のホタテが、貝に包まれたそのままの姿で、積み上げられています。
▼ものすごい量のホタテ貝
この大量のホタテ貝を開くのが、スチーマーです。
▼人の手で開いていたら大変!
スチーマーで蒸すことによって貝が開き、自然と中身が落ちるようになっています。その後洗浄し、耳取りと呼ばれる作業へ移ります。
▼耳取りは人の手で丁寧に
耳取りとはトリミングのことで、取りきれなかったワタなどを人の手で細かく外していきます。きれいになったホタテは機械でサイズを選別し、塩茹で、乾燥の後、ひと晩寝かせます。
▼たくさんの人が働いている作業場
ひと晩寝かせた後は、さらに熱風乾燥機、除湿乾燥機にかけ、安養室でカリカリになるまで干していきます。
▼白いホタテの色が……
▼濃い色に変化していく
ちなみにこれは干し貝柱に加工する工程ですが、水揚げされたホタテのうち、干し貝柱になるのが3分の1、冷凍して販売されるのが3分の1、鮮魚として販売されるのが3分の1だということです。
▼水揚げから箱詰めまで40日間を要する
和食でも洋食でも、そのまま火を通しても、どんな食べ方をしてもおいしいホタテ。猿払村の漁業の様子や工場で加工している様子を見せてもらうと、改めてその豊かな恵みを感じずにはいられません。
現在のこの猿払村の姿が、決して当たり前のものではなく、先人の決断と努力によって再び呼び戻したものだということ。それはもしかすると、現代を生きる私たちの大きな教訓にもなり得ることなのかもしれません。
北洋銀行浜頓別支店
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