【別海町】 標津町・別海町にまたがる野付半島は、日本最大の砂嘴として知られています。根室海峡につきだしており、その長さは全長28kmに及びます。半島を車で走ると家がほとんどないことが分かると思いますが、その昔は、先端部にも町があったというのです。なぜそんなところに?どんな町だったの?今回はその謎に迫ります。
江戸時代には宿泊施設もあり賑わっていた?
野付半島を走る道道950号線。半島先端部に行く唯一の道路です。18kmにわたるその道路を車で走ると、ほとんど家がなく、半島の幅が狭いため両側に海を見ながら走ることができる場所が結構あります。現在では、野付半島ネイチャーセンターあたりで通行止めとなっており、そこに向かう観光道路の性格が強い道路になっています。実際、半島中央部以遠には番屋以外、民家はありません。
しかし、昔はこの半島のあらゆる場所に集落が形成されていたのです。遺跡も数多く発見されています。古くは擦文時代と思われる竪穴住居跡が半島中央部のオンニクルの森で発見されました。文献としては、「津軽一統志」(1670年)の中で、「みむろよりのしけ着。……是よりらっこ島くなしりへわたり中候」、つまり野付崎から国後島へ渡っていたと記述されています。
1798年に択捉島に渡った近藤重蔵御一行も帰りに野付に宿泊しています。ですから、当時宿泊可能な建物、つまり漁番屋のようなものがあったということがわかります。1799年には江戸幕府により国後島へ渡るための通行屋が設置され、番人やアイヌ約8人が詰めていたり、ロシアの南下政策に備える武士も常駐していたとされています。
どうして人が増えたのか、その別の理由としては、野付崎の外は鰊の漁場であったということも挙げられます。春には根室地方から人が集まり、半島先端部の外海側アラハマワンドには50~60棟の建物が立ち並んでいた時期もあったようです。今も敷石が残されており「荒浜岬遺跡」と呼ばれます。
野付半島ネイチャーセンターに展示されている通行屋遺跡の遺物
そして、そうした鰊漁でにぎわう野付崎の先端部には幻の町「キラク」という集落があったとされています。これは歓楽街であり、遊郭や鍛冶屋があったと言われています。今も墓地などが残されています。
そんなにぎわっていた時代も終わりを迎えることになります。明治時代には、制度が変わりました。交通が発達しましたし、漁業も衰退し、野付半島先端部からは人が去っていきました。野付半島に行く際は、トドワラ・ナラワラ等自然も良いですが、歴史にも目を向けてみるのはいかがでしょうか。
野付半島にある遺跡の数々
野付半島ネイチャーセンター展示より。野付半島付け根から先端部にかけて順番に。
・イドチ岬遺跡:中央部湾内側。内径17mの円形チャシ跡と方形・楕円形の竪穴住居跡が7確認されている。
・オンニクル遺跡:中央部湾内側。方形・長方形・円形の竪穴住居跡108確認されている。
・ポンニクル遺跡:中央部湾内側。幅1.5m深さ50cmの溝が4本あり、円形の竪穴2個がある。その他近くに竪穴1個、加賀伝蔵が開いた畑跡と思われる草原がある。
・エキタラウス遺跡:中央部。会津藩陣屋跡とされる。1963年には幅2m・深さ50cmの濠が26m×24mの範囲で巡らされていたというが、現存しない。
・ナカシベツ遺跡:先端部外海側。
・荒浜岬遺跡:先端部外海側。鰊番屋・蔵など50~60棟あった。陶磁器やガラス・金属などの遺物も採集されている。
・通行屋遺跡(幻の町キラク):先端部。1799年設置。昭和30年代後半に所在を確認。土塁・貝塚・墓石・井戸の跡・約1万点の遺物が確認されている。