坊ちゃんと旧千円札で有名な作家・夏目漱石(1867-1916)。明治時代から大正時代にかけて活躍した日本を代表する文豪です。出身地は江戸(東京)で、北海道にゆかりのある人物です。でも、彼自身はそのゆかりの地を訪れたことはないそうです。
いったい、どういうこと? 後志管内岩内町にその記録があるので、行ってみました。
夏目漱石と岩内町の関係
夏目漱石は、東京(当時は江戸)で生まれ、イギリス・ロンドンへ留学、満州~朝鮮の旅行、愛媛、熊本、伊豆、大坂、京都にいたことがあります。しかし北海道に来て生活したことはなかったようです。
後志管内岩内町は、そんな夏目漱石の戸籍が置かれていた地です。住所は当時の国名で言うと「後志国岩内郡(岩内市街地)吹上町17番地 浅岡仁三郎方」でした。つまり、夏目漱石(本名:夏目金之助)は岩内町民だったことがあるのです。ちなみに浅岡仁三郎とは三井物産硫黄山の御用商人であり、夏目家とは直接知り合いというわけではなかったようです。
東京から後志国岩内へ漱石が送籍したのは1892年(明治25年)4月5日と町史には記されています。1897年(明治30年)1月22日に岩内郡鷹台町54番地に移転(浅岡仁三郎と別居扱い))後、1914年(大正3年)6月2日に東京に籍を戻しています。その間約22年です。
道内に戸籍があったことは、岩内町郷土館所蔵の戸籍謄本の記録、夏目漱石本人の「極北日本」内の「籍を北海道に移し……後志国の平民になっている」と記述していることなどから証明できます。でも実際には北海道にいたわけではなく、道外やイギリスにいっていましたので、書類上だけのことでした。
▼岩内町郷土館に保存されている夏目漱石(金之助)の戸籍謄本
夏目漱石の転籍の理由と徴兵制
転籍した理由について本人は前述の「極北日本」内で「妙な関係から」とだけ述べており、詳細は不明です。ただ、推測することは可能です。転籍したのが大学卒業にあわせた時期になっているのがヒントです。
当時国内では徴兵制が敷かれていました。25歳の学生なので徴兵猶予がありましたが、卒業後徴兵される可能性がありました。そこで当時免除地域だった北海道に籍を移転させる方法をとりました。というのが有力な説 です。
当時北海道は屯田兵が置かれており、開拓に集中していましたし、人口もわずかでした。それで道内に戸籍を置く者が兵役免除でした。1889年1月に函館・江差・松前(福山)、1896年1月に渡島・後志・胆振・石狩で徴兵令が出されるようになり、屯田兵募集停止が迫る1898年1月に全道に徴兵令が敷かれるようになりましたが、それまでは免除でした。
こうした時代背景から、本州の人でも兵役逃れのため日高、網走など道内各地に籍を移していたことがさまざまな資料から判明しています。夏目漱石自身もそのことは知っていたものと思われます。22年たって籍を東京に移しますが、その後まもなく亡くなっているので、人生の半分弱は岩内にいたことになっているわけです。
関連年表
1892年4月5日 | 東京から後志国岩内郡吹上町17番地 浅岡仁三郎方に転籍 |
1893年 | 帝国大学卒業 |
1895年 | 愛媛県の尋常中学勤務 |
1896年 | 熊本県の高等学校勤務・鏡子と入籍 |
1897年1月22日 | 後志国岩内郡鷹台町54番地に移転 |
1900年 | イギリス留学 |
1903年 | 東京帝国大学勤務 |
1907年 | 朝日新聞社入社 |
1910年~ | 病気を患う |
1914年6月2日 | 岩内から東京に転籍 |
1916年12月9日 | 死去 |
文豪夏目漱石立籍地に行ってみよう!
その記念碑は静かな住宅街の一角、後志管内岩内町御崎13番地の交差点に位置しています。[地図]
これは、岩内町が1969年に高さ約1.8mの御影石の碑石を建立したもの。非常に簡単なものでありますが、この記念碑に文豪夏目漱石立籍地と書かれており、別の面には22年間本籍を置いていたゆかりの地であることが表記されています。
(※本稿は2008年に公開した記事をリライトしたものです。)
所在地:北海道岩内郡岩内町字清住5-3
電話:0135-62-8020
開館期間:4月上旬~11月下旬
開館時間:9時~17時
休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
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