北海道唯一の隕石がどこにあるかご存知でしょうか? 「光珠内いん石」と呼ばれるその隕石は、美唄市郷土史料館にて常設展示されています。2015年は落下から90年という節目の年。光珠内隕石とはいったいどんな隕石だったのか、その歴史を紐解きます。
1925年9月4日に突然落下した隕石
それは1925年9月4日16時半頃、美唄市光珠内の農家の畑に同時に二つ、垂直に落下しました。地元では、田中勝氏(所有者)、倉田正次郎氏ほか多数の目撃者がありました。当日は晴天であり、札幌でも上空を横切る物体を見たとの目撃情報がありました。
6日付発行の『北海タイムス』はその出来事を、「中空に尾を引いて西方から東に向け大きな轟音があったので皆が戸外に飛び出した。間もなく目の前70~80m先の、畑地の燕麦稈を積み重ねた上に落下した。それは黒色の三角形石塊」と報じました。結局30分後に現場で発見されたのは一つだけでした。
落下及び発見場所は「沼貝町字光珠内350番地」[地図] と報じられました。発見地は国道12号線沿いに近く、長年 看板が設置されてきました(光珠内駐在所(2014年廃止)横に看板があったものの、2015年9月現在道路拡張工事のため撤去中)。
発見された隕石の行方
落下直後は北海道初確認の隕石ということもあり、研究が次々と行われました。今井半次郎氏が落下直後と後年(年月日不明)の計二度 切り取り、1972年には八木健三氏らが切り取り、それら3つの破片がほかの研究者たちへと移譲や割譲を繰り返していきました。主要部は、郷土史料館に寄託される1981年まで、所有者宅に保管されていました。
現在は、郷土史料館展示の主要部(市指定文化財第3号)、北海道大学総合博物館蔵の小片(6.0g)、茨城大学教授蔵の小片、国立科学博物館蔵の小片(16.5g+1.3g+1.5g+0.1g+微量)とレプリカがあります。ちなみに、光珠内隕石は成分比率によって「石質球粒隕石」(普通コンドライト)H4に分類されています。
発見時の重量は確定できないながらも、推定者によっては356gまたは363gと推定されており、現在の郷土史料館展示のものは当初の5分の4の重量になっています。厚さ2~3cmほど、長辺8cmほどで、角は切り取られてしまっていますが、発見当時は角がもっと尖った三角形だったそうです。
(1) 1925年・今井氏20g切り取り
(2) 年代不明・今井氏が切り取り→(後年18.2g)→国立科学博物館蔵
(3) 1972年・八木氏ら29.2g切り取り→北大博物館蔵・茨城大学教授蔵・国立科学博物館蔵
(4) 主要部は所有者蔵で美唄市郷土史料館に寄託展示(市指定文化財第3号「光珠内いん石」天然記念物、資料重量289.35g、質量281.35g、体積81.5㎝3、比重3.45)
▼2015年の90年記念特別展でそれらが里帰りした
沼貝隕石なのか、光珠内隕石なのか
当時、美唄市は沼貝町であり、沼貝隕石とも呼ばれており、その後も呼び方はさまざまでした。落下直後に駆け付けた地質学者・今井半次郎氏は「光珠号」と命名、国立科学博物館の国内隕石リストや国際隕石学会の隕石リストには「沼貝(Numakai)」として記載されています。
しかし慣例として発見地の近くにある郵便局の名前が使われることが多く、1976年6月5日に美唄市指定文化財第3号に指定されると「光珠内いん石」と広く呼ばれるようになりました。
最近になって分かった光珠内隕石の新事実
2013年以降、美唄市郷土史料館と小樽市総合博物館が連携して調査研究が行われました。それにより、上述の小片の行方、情報の集約などが行われました。
意外だったのは、落下日が間違って広まっていたこと。初期の論文の多くはもとより、国際隕石学会の隕石リストでも、2014年に修正されるまで、落下日が9月5日と間違って記載されていました。これは新聞報道が6日付の新聞(北海タイムス・小樽新聞)であったこと、5日の報告として報じられたことが要因と考えられています。
一方で、小片の切り取りが繰り返されていることもあり、落下当時の重量が不明のままになっているのもまた事実で、今後のさらなる調査が待たれます。