北海道の歴史とは?重要なポイントを解説します

北海道は本州に比べて歴史が浅いといわれますが、それは開拓が遅かっただけ。実は調べていくと、本州の縄文~弥生時代に縄文もあったしオホーツク文化という発達した文化もあった、後にはアイヌ民族の文化もあったなど、けっこう長い歴史があるんです。本稿は北海道の歴史をかいつまんでまとめたものです。重要箇所は太字になっていますので、注目なさってください。

旧石器時代・縄文時代(道南・道央・道東)

旧石器時代の出土や縄文時代の貝塚発掘など北海道にもかなり古い歴史があります。特に噴火湾の伊達市・洞爺湖町・豊浦町・森町などには貝塚が多く国内有数の貝塚地帯となっています。縄文後期では函館市南茅部の遺跡群が有名で東北の三内丸山遺跡をもしのぐ規模。環状列石といった遺跡は北海道では道北をのぞき全域で見つかっている状況です。

その縄文時代は紀元前1世紀ごろ続縄文文化へ引き継がれ、本州での弥生時代・古墳時代を経て、奈良時代の8世紀まで続きました。そして農耕というよりも海岸沿いや河川沿いの漁業が主な生活でした。寒冷期もあり、この時期には東北へ南下していく傾向がありました。先史時代のまとめはこちら

オホーツク文化(道北・道東)

そんな中5世紀から10世紀にかけて、オホーツク海沿岸に縄文文化とはまったく異なる高度な海獣狩猟と漁業の文化が誕生、一般にオホーツク文化と呼んでいます。アムールやサハリン方面からやってきたと考えられています。この遺跡は利尻礼文や稚内、そしてオホーツク海沿岸部(知床・標津・根室・国後択捉を含む)に散在しています。中でも枝幸町の目梨泊遺跡に見るように、ここには最大の集落があったようです。オホーツク文化のまとめはこちら

北海道が初登場!

北海道について記録されている最古のものは「日本書紀」であり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が遠征を行ったとかかれています。658年から3年連続で北海道へ渡ったようです。「渡嶋蝦夷(わたりしまのえみし)」と称される集団が初登場するのもここ。659年には後方羊蹄(しりべし)に政所を置いたと記述されています。3回目は渡嶋蝦夷を援助し粛慎(あしはせ)と戦いが起こり打ち破ったとされています。当時は道南や道央を指して(または北海道全域を指して)「渡嶋」とされていました。

擦文文化(北海道全域)

擦文文化とは、続縄文文化に続いて起こった文化で12世紀までに北海道全域に広まったようです。基本的に続縄文後期の文化と同じで、河川中・下流域に集落を形成しました。特に住居跡が本州のものとほぼ同じで、本州の文化を多く受け入れた文化ということが出来ます。

ここで、石狩低地帯を中心とする渡嶋蝦夷が重要な役割を果たし、東北北部の文化、土器・鉄器・住居・古墳といったものを北海道にとりいれました。それ以降東北地方との交易が盛んになっていきました。お偉いさん方「夷首(えみしのかしら)」が台頭してきたのもこの時期でした。

アイヌ文化と和人支配

11~12世紀以降は、擦文文化に続くアイヌ文化。本州の文化やオホーツク圏の文化の影響を受けつつ形成されていったようです。和人が移り住んでくるようになったのは12世紀ころからで、本州では鎌倉時代で鎌倉幕府などの流刑地とみなされていました。源頼朝に追われ脱出した先が蝦夷地、という人もいたようです。

コシャマインの戦い(道南)

1454年から1456年には、蝦夷代官安東氏の子孫安東政季が渡り、渡島半島先端部を松前、上之国(松前以西から上ノ国)、下之国(松前以東函館)の3つに分ける「三守護体制」を施行し、それぞれに守護と副守護、その下に館主を置きました。

しかし、その直後東部の首長コシャマイン率いるアイヌが蜂起し「コシャマインの戦い」が勃発、道南12館のうち10館を攻略しました。理由は、アイヌと和人の間の経済的不平等、函館東側の志濃里の鍛冶村で鍛冶職人がアイヌ少年とマキリ(小刀)のできをめぐって争いになって殺すという和人優位の事件や、三守護体制から外された旧館主たちの不満とされています。

これ以降1525年まで70年くらい蜂起がたびたび起こりましたし、民族的対立も激化。コシャマインの戦いは結局、武田(蠣崎)信広が鎮圧し、彼が渡島半島南部のリーダーそして松前藩設置の基盤となりました。その後、渡島半島南部は和人集住地とし、この地区の支配を強化していきました。

江戸時代、松前藩成立!(道南)

豊臣秀吉が全国統一しようともくろんでいました。渡島半島南部を統治していた蠣崎氏子孫の慶広は、秀吉への臣従であり、秀吉の軍事動因として参加したりして、「直忠臣」として認められるようになりました。それだけでなく徳川家康と関係を育み、江戸幕府誕生の際には松前と氏を改めるようになりました。江戸へ参勤したり臣従の態度を示し、1604年家康から松前慶広宛に黒印状(領主権を保証する証書)が送られました。こうして松前藩が誕生しました。

松前藩は農業を基盤とすることが出来なかったため、アイヌとの交易に依存しました。江戸時代初期には松前にアイヌの人たちがきて交易が行われ、乾燥鮭、ニシン、白鳥、鶴、鷹、鯨、とど皮、とど油などをアイヌ側が提供、米、小袖、木綿と交換していたようです。干鮭100本と米一俵といった交換比率でした。

17世紀頃には、商場という交易地点が設けられて、そこで交換するようになりました。それでも交易船(藩士の使用人または代行商人)が来るのをアイヌの人たちが待つという和人主導のシステムでした。アイヌ側の和人との交易は主に、幾つかのコタンをまとめて代表する”総大将”が管理し行っていたようです。

シャクシャインの戦い(道央~道南)

1669年に現在の新ひだか町の首長シャクシャインが、蝦夷地各地のアイヌを率いて蜂起、和人が多数殺され松前に向かって進撃していきました。それより20年も前のこと、静内川流域のオニビシ勢がけんかをしかけてきたため、同じ河川東部のシャクシャイン側は奇襲攻撃でオニビシを討ち取り、オニビシ側が松前藩に助けを求めてウタフを遣わしたものの帰りに病死。和人が毒殺したといううわさが流れ、シャクシャインが反松前藩への蜂起を呼びかけたものでした。

しかしそれだけでなく、和人主導による不当な交易の不満もありました。交換する米の量を少なくし事実上値上げしたり、一束でも足りなければ翌年には20倍といったことが行われました。和人が漁を始めたり、「押買」という承諾なしに安い値段で無理やり買う方法も取られたりしました。それまで何度か松前藩への抗議・反抗がありましたが、今回は大規模なものとなりました。松前藩は鉄砲で対抗、アイヌ勢力を分断し、さらにシャクシャインを偽りの和議の場に呼び出し殺害、静内のチャシ(戦闘・祭用施設は攻め落とされ、シャクシャインの戦いは鎮圧されました。

その後、各地のアイヌの人たちは、松前藩への服従や乱暴禁止、交換比率は干鮭100本と米一俵とするなどを定めた起請文で服従を誓わされました。それでもしばらくの間蝦夷地との交易もスムーズではなく、商船がほとんど来なくなってしまいました。まさに財政難になりました。

和人地拡大(道南)

ところで、和人地(和人占拠地)と呼ばれる地域も拡大していき、1633年には函館東側の石崎を東端とし乙部までを区域としていましたが、1670年には北端が熊石まで、1800年には噴火湾の野田追までになり、和人地と蝦夷地の区分は厳格に定められました。蝦夷地は和人が住むことは許可されず、専ら交易のみでした。和人地での漁業は鮭、ニシン、昆布漁。この昆布は年貢の品のひとつでした。和人人口総計15000人。松前は当然中心でしたが、当時箱館とはかつての亀田川河口の亀田であり、東部地域の中心的存在であったようです。

クナシリ・メナシの戦い(道東・国後島)

18世紀中期になっても、蝦夷地東部の根室や国後択捉といった場所では強力なアイヌ勢力があり、松前藩の管理も難しいものでした。そのころ、ロシア人の南下もあり、ウルップ島でロシア人を追い払った記録もあります。こうしてクナシリ・メナシの戦いが起こりました。

国後との交易を推し進めるため請け負った飛騨屋でも、国後のツキノエらが拒否をし交易がなかなかスムーズには行きませんでした。やがて、交易開始後には鱒漁を大々的に行ってシメカスに加工するために過酷な使役を行うようになり、1789年のこと、国後島と道東のメナシ地方の各地で和人が殺害されるという事件が起こりました。

松前藩の鎮圧軍が派遣されましたが、ツキノエや厚岸のイコトイといった首長たちは、飛騨屋の酷使に理解を求めるため松前藩に協力姿勢を示したものの、軍は首謀者らを殺害し、一部男女を御目見得蝦夷として人質のようにして松前に連行していきました。

ロシアやってくる

ロシア側は日本との交易を求めてきたわけですが、ツキノエらは新しい役割を求めて両者の仲介役になろうとしました。それも一蹴されました。松前藩は根室や厚岸で直接ロシアの使節と応対しましたが、長崎以外で交易は出来ない決まりという回答をし、1回目の贈りもの返還と来航の労をねぎらう品を送りました。その後ロシア使節ラクスマンがネモロに来航したりイギリス船が接近したりしたこともあって、緊張が高まり、幕府により蝦夷地調査が行われることとなりました。

さらに警備体制も強化され、南部藩がネモロ・クナシリ・エトロフ、津軽藩はサハラ・エトロフに勤番所、両者箱館を本陣とすると決められました。松前藩だけでは軍事力が足りませんでした。ロシアのカフラフト・エトロフ襲撃事件のあとには、これらに加え仙台藩・秋田藩・会津藩も警備させました。

アイヌ和風化政策

これに際し、アイヌ民族は日本側に従うように教育しておくべきだとされ、場所請負制は廃止、交易も公正に行う、漁業労働は適正に幕府直営、などが定められることになりました。これをアイヌ和風化政策といいます。和語を用いさせ、かな文字を教える、日本風の風俗を教えたり、入れ墨だめ、家も服装も耕作させ穀食の推進などもありました。

さらにロシアの接近でキリスト教が広められないように幕府は仏教を広めておかなければなりませんでした。そして松前藩では負いきれないとされ、松前家は一時的とはいえ陸奥国へ移動させられ蝦夷地も一時的に幕府直轄になりました。

和人流入

東北地方で飢饉があった際、逃れてくる人も多く、しかも松前藩は米やニシン、鮭などを与えて手当てをしたようで、和人の餓死者はいなかったようです(ただし蝦夷地は飢餓)。さらに出稼漁民の定住化なども手伝って人口増加が続きます。特に3港のうち箱館は1800年に江差や松前城下を下回っていたものの、1860年までに江差・松前を抜いています。ただ、和人地はニシンもとれなくなり漁業不振に陥っていたので石狩にまで行っている状況でした。

箱館開港

その後も引き続き異国船が接近し、厚岸では交戦状態になりました。ロシアの使節プチャーチンは長崎に来た際、国交だけでなく樺太・千島列島で国境確定交渉を求めました。ペリー来航の際には、下田と箱館開港を了承、1854年条約調印後にアメリカ艦隊が箱館にやってきました。大事であり、停泊1ヶ月間は婦女子は外出しない、酒や呉服は目に触れないように、市内へ馬の出入り禁止、小船往来も禁止、異国船見物や覗き見すら禁止というお触書が出されたようです。

外国船との交易は行わない取り決めだったものの、箱館奉行は収入増を見込んでひそかに取引が行われていました。日米修好通商条約後は自由貿易が開始し、主に昆布の輸出を行いました。こうしてロシアやアメリカ、イギリスなどから外国人が箱館に流入していき、箱館は異国情緒あふれるまちに変貌を遂げていったわけです。それだけでなく、外国の新聞でとりあげられ世界に紹介されるようになった北海道で最初の地でもありました。

蝦夷地上知と開拓の基礎

松前付近は警備体制が整っているものの、ほかは警備できていない現状を重く見て、松前藩領は松前を含め乙部~木古内までとし、ほかは幕府による領地とする宣言が行われました。箱館奉行の管轄となり、箱館付近の警備は松前藩。その他は分割統治され、おおまかにですが、南部藩(後志/西胆振/渡島北部)・津軽藩(檜山)・仙台藩(十勝/日高/東胆振/釧路/根室/北方領土)・秋田藩(宗谷/留萌)・庄内藩(石狩/空知/天塩/留萌)・会津藩(北見網走/知床)が分担しました。中でも石狩を重視したようです。

このころ、水田もすすめられ、さらに蝦夷地への出入り禁止は解除され、移民導入促進と永住者増加対策を行いました。そして農業開拓を行うようになり、和人人口は急増していきます。和人人口が増えたところでは場所請負制を廃止して村の扱いをし、箱館奉行所直轄とするようになります。1858年に石狩、1864年に長万部や山越内、その後小樽といったところです。

産業はほぼ赤字(最大は焼酎や五升芋)で、外国船への売却で石炭が目立って黒字でした(続いて養蚕)。この時期にその後の北海道開発の基盤となったものが数多くありました。

箱館の防備体制も整える必要があり、この過程で五稜郭が誕生しました。幕末にはまとめ役としての請負人が誕生し、たとえばオホーツク沿岸の働き手はソウヤリシリに集めて使役、石狩では鮭やニシンの漁に使役し、その結果石狩川流域のアイヌコタンは壊滅状態になりました。

箱館戦争と松前藩版籍奉還

松前藩は苦しくなりました。財政は難しく、蝦夷地産物は松前経由で移出されることになっていましたが、東蝦夷地産物は箱館経由だったので、収入も少ない状況でした。箱館開港といっても松前藩は外国人との取引が出来ず、弱体化していきました。

幕末で混乱の時期を迎えました。英明とされた藩主崇広を失い、後継ぎは病弱な徳広、松前勘解由らの指導であったもの次第に反発が強くなり、1868年クーデターが起きました。松前勘解由らは殺害され藩政を改革したものの、箱館戦争が勃発してしまいました。

榎本武揚ら旧幕府軍は1868年、当時日本最強軍艦海陽丸以下7隻の船を率いて噴火湾鷲ノ木に上陸、大鳥指揮の本隊は大沼、峠下を通って箱館へ、土方指揮の別隊は海岸線を鹿部、川汲と進み内陸を通って箱館へ。津軽や松前の兵を破り五稜郭占拠、「箱館府」知事の清水谷公考は青森へ逃げていきました。土方の軍はその後松前を目指し木古内、知内と進み松前で落城させ、松前徳広藩主の逃げた先の厚沢部の館城も松岡隊により攻略、そして熊石まで進軍し、藩主は津軽半島へ脱出するという事態になりました。こうして榎本は役職の公選により蝦夷地の総裁となり“蝦夷共和国”のようにも見えました。

一方政府軍は青森から乙部・江差へそれぞれ上陸させ、まず松前城を奪回、ついに箱館付近の応戦となりました。ここで土方は戦死し、榎本は降伏、1868年に長期戦となった戊辰戦争はここに終結しました。

松前藩は版籍奉還、1869年松前家は館藩知事になり、廃藩置県により館県となり、一時期青森県管轄になったことがありました

開拓使設置

明治時代初期の箱館戦争後、避難していた清水谷が復帰、蝦夷地開拓に力を入れるとの政府の命により、1869年開拓使庁が東京の芝の増上寺に設置され、北海道と樺太、千島が管轄エリアとなりました。さらに松浦武四郎の原案から、蝦夷地は北海道と改称、11の国と86の郡の行政区画が誕生しました。さらに樺太開拓使も一時的に設置されています。

1869年には箱館は函館となり、開拓使出張所を設置、ロシアの脅威や北海道開拓拠点の面から札幌には本府を設置する計画がありました。そして札幌へ開拓使庁は移され、現在の札幌市街区画の基盤が完成されました。また、海官所(海関所)を函館・幌泉・寿都・手宮の4箇所に設置しました。多額の予算(10年計画で1000万円)を投与して西洋の技術を導入するようにしました。黒田清隆が開拓長官になった際には薩摩出身者を集めて、アメリカを開拓のモデルとして北海道近代化へ向けて開拓がすすめられていきました。お雇い外国人としてアメリカのケプロン、地質のライマン、酪農業のダンといった外国人が開拓に関係しています。

札幌農学校が設立されたり、新冠や根室などに官設牧場が設立されたり、農業の一つとして牧畜も進められることになります。さらに稲作についてはそれまで道南だけであったものが、島松で水稲試作に成功した後石狩を中心に稲作が広まっていきました。

屯田兵

移民も多く受け入れ、1869年には東京で募集、500人が樺太や宗谷、根室といった地域に移住させました。特に廃藩置県で落ちこぼれの士族たちの中には、伊達藩伊達邦成の有珠地域移住をはじめ北海道移住を決意した人もいました。

兵農両方を行う屯田兵制も定められ、琴似を筆頭に道内各地に兵村を設立していきました。屯田兵は土地や食料、農具などは給付されるものの生活は厳しいものでした。兵村数は37、戸数は7337、総人員は39901人でした。その後札幌に第七師団が設置されその管轄となり、屯田兵条例は廃止されました。

官営の充実

1871年以降、開拓史による官営工場が誕生していきました。それらは札幌に集中させ、工業団地を形成させました。開拓使麦酒醸造所は現在のサッポロビールの前身。炭鉱開発もお雇い外国人のクロフォードを技術長として幌内鉄道建設に着手小樽は石狩の玄関口として栄えていきました。道路整備も行われたり、東京~函館・小樽の定期航路も開かれました。

また札幌農学校が設立されたり、小学校も学制通りの学校は道南に見られるだけでほかは北海道独自の特例として変則小学校も登場したりしました。江戸時代を起源とする北海道独特の駅逓所(えきていしょ)の制度が整備されました(本州では本陣(=海上屋・会所・通行家・旅宿所)が廃止された際運輸業務も民間に委ねられた、北海道では交通不便のため宿泊・運送・通信の便を図るために人馬を備えた駅舎が設けられた)。

樺太千島交換条約

樺太開拓使廃止、樺太から日本人引き上げ通達。その後樺太を譲るから千島をくれという交換条約が締結されました。樺太南部のアイヌ841人はまず宗谷へそれから江別の対雁に移住させ農業を強いました。千島のアイヌは日本国籍を選んだ97人を色丹島に強制移住させました。さらにアイヌの生業を奪い、区分する際には旧土人とするようにと命じられました。そして和人への同化政策を強行しました。

3県1局時代

1882年開拓使10年計画が終了すると開拓使廃止、函館県・札幌県・根室県の3県が置かれることになりました。翌年には農商務省北海道事業管理局が設置され、主に管轄することになりました。これらをまとめて3県1局時代と呼びます。3つの県令と局長は薩摩出身でした。ただし本州の県とは異なり自治権がない特別な県。

この時期に、北海道の警察や郡役所や戸長役場が整理されました。この行政管理は北海道独特で進められ、本州で適用された地方三新法のうち郡区町村編成法だけが北海道で実行され、90の郡区、826の町村が設定され、戸長は公選ではなく官選でした。

集治監が設置されたのはこの時期で、石狩国樺戸郡須倍都太に樺戸集治監、空知郡市来知に空知集治監、釧路国上川郡標茶に釧路集治監、その後網走や帯広(十勝)が分監として設置されました。後に釧路と空知は廃止され、札幌・函館・根室・樺戸・網走・十勝が監獄となりました。こうして北海道は囚人を道路開削工事、橋の建設、屯田兵屋建設、炭鉱労働、硫黄採掘などで酷使し開拓をすすめていきました。この強制労働体制は廃止はされるのですが、タコ労働として結局受け継がれていくことになりました

移住者急増

この明治時代は移住者により人口が類を見ないほど急増しています。開拓使設置時代は58000人でしたが、北海道庁設置時は30万人、その4年後に42万人、その15年後には119万人にまでなりました。明治初期の10年は主に士族層、屯田兵が多く一般移民はごくわずかでしたが、その後は西日本を中心に離農者が移住してきたり、明治後期から大正時代には東北の大凶荒により東北地方から農業移民として続々とやってきました。いわゆる北海道移住ブームです。東北地方が最も多く、続いて北陸地方、四国からも多くやってきました。

会社(結社)ぐるみの集団移住も見られるようになってきます。帯広には依田勉三らの晩成社、浦河郡に赤心社、岩内や手稲、乙部、湯の川などには開進社、江別太には北越殖民社。また、札幌県は岩見沢、函館県では木古内、根室県では鳥取と、3県に1箇所ずつ移住士族取扱規則により食料や家作などの保護がなされる地域を作りました。

移住してきた多くの人たちはまず道央石狩国に入植、それから道南圏、道東や道北に移動するパターンが多かったようです。何度も移住したりしたため、流動性は激しく、地域住民との結束はあまりありませんでした。文化についてみれば、様々な地域からの人たち同士で摩擦が起きたり衝突が起きたりしました。比較的歴史を持つ道南は浜ことばがあるものの、それ以外の各地でお互いの文化を取り入れた融合が進み、ひとつの文化を作り上げることになりました。

北海道庁スタート!

1886年、3県と1局体制はわずか4年で廃止され、北海道庁が発足しました。府県と同じ地方行政ではありましたが、中央政府による組織で、トップは知事ではなく長官、そして内務大臣管轄ではなく内閣総理大臣指揮下に置かれました。初代長官は高知藩出身岩村通俊。

開拓適地の選定調査が行われ、それら植民地には基号線による碁盤の目の区画割が行われました。開拓に際し、土地貸下げが行われたり、北海道国有未開地処分法が施行されて小農民移住者には特定地を無償で貸与・付与しました。そうすると次第に国有未開地処分面積が減少してきます。こうして北海道開拓時代が終わりを迎えることになります。

また、当時は徴兵制免除地域であった代わりに、衆議院議員選出権がありませんでした。それで札幌や函館、小樽を中心に地方自治を目指し北海道議会開設運動が繰り広げられました。結果北海道会開設や北海道区制、北海道一級町村制が施行され、札幌・函館・小樽の3区で衆議院議員選挙が実施されることになりました。

北海道旧土人保護法

北海道開拓進行が進みアイヌ民族の生活を苦しめていたことから、1899年明治政府により北海道旧土人保護法が施行されました。農業を勧める、医療支援、教育強化の3本柱でした。これは諸外国に日本の近代化を示すためでした。当時のアイヌ民族の生活しているところは、日高国が最も多く続いて胆振国、十勝や釧路も多い地域、渡島は最も少ない地域でした。

日清戦争と軍事

函館・福山・江差以外は徴兵令がなかった北海道でしたが、日清戦争により臨時の第七師団編成があったり、その台頭で屯田兵制度が廃止されたり、渡島・後志・胆振・石狩の4つの国で徴兵令が実施されるようになりました。その後全道で実施されたものの兵士はほぼ内地依存でした。この第七師団は札幌から徐々に旭川へ移転していき、旭川=軍都になりました。

北海道第一期拓殖計画

開拓使10年計画と北海道10年計画に続く明治維新三大事業計画として北海道拓殖事業計画が行われるようになります。鉄道と港湾と排水と運河と道路の5事業を真髄とした北海道10年計画でしたが、この計画は移民招来と道路新設、泥炭湿地の改良、河川護岸工事や石狩川治水工事、小樽や釧路、留萌など8港整備などが含まれました。

明治の産業

漁業はほとんどがニシン漁で占めていました。日本海側には鰊御殿がたくさん建てられ富裕層が出現しました。しかしそれもつかの間、北海道沿岸から鰊が徐々に姿を消してしまいました。一方、稲作産業も本格的にスタートしたのは明治期。水田比率はわずかに7%であり、畑作が中心でした。

炭鉱事業も拡大し、幌内だけでなく空知太や室蘭への鉄道延長工事が行われるようになりました。日露戦争後には王子製紙に代表されるパルプ製紙や日本製鋼所に代表される金属機械工業など工業発展が始まりました。また、女性も男性と同じように開墾で力を発揮していました。

開道50周年

1918年は開拓史が設置されてから50年記念。記念式典が執り行われたり、北海道史編纂が行われました。また大々的に博覧会を開催し、北海道が内地化されていることを誇示しようとしました。市町村制度も北海道独自で、二級町村では自治が制約されていたり、市制ではなく区制を当初施行していました。

北海道第二期拓殖計画

この計画では、昭和初期から始まり、根釧原野では畜産農業を奨励する根釧原野開発五カ年計画を実施、北方産業のひとつとして北海道酪農の基盤となりました。その他に空知や上川は稲作、十勝や網走は畑作というように地域ごとに専門的に生産する方法もこの時期スタートしました。さらに鉄道網充実なども含まれました。

この時期、労働争議、ストライキも炭鉱工員や一般庶民から持ち上がりました。戦争の時期に入ると満州に注意が注がれ、北海道は開拓地としての地位は低下していました。次第に朝鮮人や中国人が強制労働者として送り込まれるようになっていきました。

太平洋戦争

太平洋戦争時期には旭川の第七師団も樺太や満州など、またミッドウェー・アリューシャン作戦などのために出兵しました。太平洋戦争末期には、北海道でもアメリカの空襲、青函連絡船沈没(これで事実上本州との交通がストップ)や艦砲射撃による攻撃を受けました。道南や道央、道東で攻撃を受け、特に多かったのは根室で船舶及び市街地に空襲を受けて400人もの死者、室蘭でも400人を超える死者、青函連絡船でも同じほどの死者が出ました。

その他、札幌、函館、旭川、釧路、帯広、小樽、網走、伊達、苫小牧、留萌、富良野、岩内、長万部、浦河、静内、広尾、本別、厚岸、中標津、石狩、厚田、積丹、古平、八雲、江別、厚真、門別、新冠、様似、えりも、大樹、更別、音更、幕別、士幌、池田、阿寒、標茶、釧路町、白糠、音別、浦幌、豊頃、浜中、別海、標津、小清水、美瑛、比布、増毛、寿都、鹿部、南茅部、椴法華、戸井、知内、福島、松前、上磯、砂原、森でそれぞれ空襲を受け人的被害が出ました。人的被害がなかったのは岩見沢、木古内、登別、白老、神恵内、共和、余市、千歳、由仁、追分、鵡川、浜益、鷹栖、清里、斜里で、上記いずれも留萌以北は空襲を受けていません。

戦後復興

日本が無条件降伏したあとのほうが、北海道付近の地域で戦闘が激化しました。樺太南部や千島列島でソ連との衝突が続き、樺太では日本兵武装解除、千島列島占領に至りました。北海道本島にはアメリカ軍が占領し、ソ連と対立する場となりました。そしてアメリカ軍は、連合国軍が占領した内地とは違い、北海道にアメリカ太平洋軍の北海道地方軍政部を置いて軍政を開始しました。

戦後、北海道疎開者戦力化実施要領を定め、戦災者疎開者から募集し北海道へ入植させました。これは主に大空襲を受けた東京都出身者がほとんどでした。ポツダム宣言により、食糧自給・増産が命じられ、北海道、特に道東で、さらに開拓が推し進められることになっていきます。

さらに、北海道が発展してきており内地の府県と同じようにみなされ、府県制は道府県制に改称されました。こうして行政も新しい制度になり、特にはじめて北海道庁長官が選挙によって選ばれることになりました。北海道総合開発においてはまだまだ問題が多く、北海道開発法が制定され、北海道開発庁が設置されることになりました。ソ連の脅威も続いており、自衛隊の増強が行われ、農民たちによって恵庭島松と別海矢臼別に演習場に反対する裁判沙汰の事件も起こりました。

高度成長期

1960年代、第二期北海道総合開発計画では青函トンネル建設苫小牧工業基地開発を重要視するものとなりました。札幌市では人口が100万人を突破して政令指定都市になるまでに成長しました。第11回冬季オリンピックが札幌で開催されました。

北方領土も戦後動きがあり、ヤルタ協定で南樺太がソ連に返還、千島列島はソ連に引き渡されるとし、サンフランシスコ平和条約では千島列島を放棄するとしました。しかしいずれも効力はないため、引火でも北方領土問題が続いています。

そして現代へ

第二次産業の石炭鉱業は、徐々にエネルギー革命により衰退していき、漁業は北洋漁業や遠洋漁業依存体制でしたが200海里水域制定などで徐々に減少、稲作においては自主流通米制度で北海道米が劣る品質のために不利となり、総合的にみて、農村漁村、産炭地から人々は転出し、逆に札幌、東京といった大都市に移転するようになりました。国鉄路線も続々廃止されました。アイヌ民族については、平成にアイヌ文化振興法が成立し、アイヌ民族初の国会議員萱野茂氏が誕生しました。

さいごに

この北海道の歴史については、北海道の学校でさえ、ほとんど詳しく取り上げられないのですが、北海道民として概要だけでも知っておくべきことだと思います。北海道は汗と涙の結晶ですから、これ以外にも数々の喜怒哀楽の歴史があるわけです。ぜひ一度、北海道の歴史を学ぶ機会を持っていただければと思います。

参考文献:『北海道の歴史』ほか