【室蘭市】太平洋戦争が終結してから、今年で70年。学校の授業で教わったことや祖父の話を思い返してみると、太平洋戦争の末期、1945年7月にアメリカ軍が日本全土に対し大規模な攻撃作戦を行い、北海道もその対象となった。
特に室蘭市には軍需工場があったことからアメリカ軍の攻撃目標となり、室蘭沖に現れた戦艦を含む、13隻の主砲による艦砲射撃を受けることになる。尚、甚大な被害を出したアメリカ軍の艦砲射撃の標的は、北海道では唯一、室蘭市だけである。
戦争の爪痕。当時の緊迫した様子を想像させる戦跡が、今も室蘭市に多数存在することをご存じだろうか?70年という歳月の風化にさらされながらも、同市に今も現存する戦跡を2つ訪ねてみた。(写真上:十五糎加農砲掩体跡・室蘭要塞正面)
十五糎加農砲掩体跡・室蘭要塞
室蘭市小橋内町(おはしない)の、閑静な住宅街が広がる高台の一角に「十五糎加農砲掩体跡(じゅうごせんちかのんほうえんたい)・室蘭要塞」がある。[地図] ツタの絡まる外観。打ちっぱなしのコンクリート。住宅街のなかに、今もこうして巨大な城壁が残されているのだ。
▼十五糎加農砲掩体跡・室蘭要塞右側
室蘭市によると、この掩体の高さは約5m、厚さは約2m。当時の北部軍管区司令部が室蘭の軍需工場を守るために、噴火湾を侵入してくる敵艦を撃破する目的で築いたようだ。
この場所には17m四方の砲台内に、96式15センチ加農(カノン)砲と、10センチ加農砲の2門が納まる砲座があった。
手前の波板で塞がれているのが開口部。裏にも同じ開口部があり、室蘭港と外海の噴火湾に向けて砲撃できるような造りになっている。
この十五糎加農砲掩体を築くために、約300人の工兵が突貫工事を行い、4ヶ月後の6月に第1砲座、翌月7月に第2砲座を完成させる。昼夜休みなく、苦労を重ねて築いたこの掩体だったが、1945年7月14・15日に室蘭を襲った空襲と艦砲射撃により成す術も無く、すべてが徒労に終わってしまった。
凄まじかったとされるアメリカ軍の艦砲射撃。ここで待機していた兵士たちは、どんな思いを抱き、この砲台から敵の艦隊を見つめていたのだろうか?現在は出入り口が塞がれているため、掩体内部を確認することはできないが、戦後は掩体にかぶせてあった土を取り除き、内部を住居用に改装して、1975年までは住宅として使われていたようなので驚きだ。
要塞付属観測所跡
室蘭市にある標高約199mの測量山からは、室蘭港や噴火湾、遠くは羊蹄山までもが一望できる。
室蘭夜景を楽しめるスポットしても有名で、眼下には室蘭市の街並みと、新日鉄住金や日本製鋼所などの工場を望むことができる。[地図]
▼測量山。測量山から室蘭港を望む
今は観光客や地元の住民で賑わうこの山の、山頂へと続く坂道を登りつめた場所に、今もひっそりと残されている戦跡がある。
それがこちらの「要塞付属観測所跡」。室蘭市によると、前出の小橋内町にある室蘭要塞砲台跡の付属観測所として築かれ、外海から侵入してくる敵をいち早く発見し、連絡するのが目的であったようだ。
敵を観測する監視窓は上下2段。現在は内部に侵入できないようにコンクリートで塞がれている。
当時のものだろうか?鉄筋がむき出しの状態で曲がっていた。
▼上下2段、要塞付属観測所跡
▼監視窓
▼曲がった鉄筋
観測所跡の上で外海を眺めてみる。こうして遠くを眺めてみると、穏やかな海が広がっている。
だが当時の兵士たちは、いつ敵艦がやってくるかもしれない緊張感や恐怖感と戦いながらこの海を眺めていたのだと思うと、あらためて平和の大切さを考えさせられた。
▼観測所から噴火湾を望む
今回紹介した2つの戦跡のほかにも、まだ戦争の爪痕を残す場所が室蘭にはある。
終戦の日はまだ先だが、戦後70年の節目にあたる年に、こうして今も残されている戦跡を訪れることにより、あらためて平和の大切さを考えさせられたのは言うまでもない。