函館・汐首岬の近くにあるコンクリートアーチ橋はなぜ造られた?

函館から東方面に23kmほど進んだ場所に、今は使われていないコンクリート造りの大きな橋があります。色が変わり、ひびが入り、ただ朽ち果てるのを待っている橋のように思えます。いったいどのような目的で造られた橋なのでしょうか。

難所の汐首岬ルートを通すため建設されたコンクリートアーチ橋

国道278号線(恵山国道)を函館から恵山方面に車で30~40分ほど走らせたところ、汐首岬(しおくびみさき)よりも500mぐらい手前、山の中腹にある汐首灯台のすぐ下にその橋はあります。コンクリート造りの8連アーチ橋「汐首陸橋」(全長52m)です。

この橋は、もともと鉄道「戸井線」を通すために造られたもの。五稜郭駅から戸井駅までの29.2kmを結ぶ予定で、1936(昭和11)年に測量開始をもって着工されました。戸井町釜谷地区の人々が切望していたことから釜谷線ともされた同区間は、工事が決まってから戸井線と呼ばれるようになります。

▼戸井線計画ルート図(『恵山町史』P1077-1081より、OpenStreetMap)(五稜郭から分岐し、東五稜郭、湯の川、銭亀沢、渡島古川、石埼、小安、汐首、弁財、戸井の9駅が予定された)

予定駅と駅間距離
五稜郭駅 0km
東五稜郭駅 3.3㎞
湯の川駅 3.9㎞
銭亀沢駅 3.5㎞
渡島古川駅 2.8㎞
石崎駅 3.3㎞
小安駅 3.2㎞
汐首駅 3.4㎞
弁財駅 2.6㎞
戸井駅 3.0㎞

戸井線の建設ではトンネル2か所、橋梁51か所が造られることになりました。中でも汐首岬を迂回するルートは断崖に阻まれたため、汐首陸橋のほか、蓬内川陸橋(3連)、瀬田来第1陸橋(18連)、瀬田来第2陸橋(25連)といったコンクリートアーチ橋が計画されました。

▼汐首灯台の眼下には橋脚も残されている

戸井線は戦前から戦時中にかけて建設されたこともあり、資材の節約をする必要がありました。コンクリートアーチ橋も鉄筋を使用せずに、安全な強度を保って造らなければなりませんでした。

幻に終わった戸井線

▼戸井線が走る予定だったという

ところが1942(昭和17)年9月、終点の戸井駅まで残り3kmほどの瀬田来地区で工事は中断。最大の難工事を終え、ほぼ9割が完成していたにも関わらず、戦局の悪化と資材不足を理由に打ち切られたのです。汽車が走るのはもう間近に迫っていると考えられていた矢先の出来事でした。

戸井線が急いで着工され、突貫工事が行われた大きな理由は、住民のための鉄道ではなく戸井要塞(津軽要塞)のための軍用鉄道であったからだといいます。軍の至上命令であった鉄道なので、要塞が役に立たなくなれば鉄道も不要になるという悲しい現実がそこにはありました。

▼コンクリートアーチ橋も利用されることなく現在に至る

戦後、残り区間の工事が再開されることはありませんでした。レールを敷くばかりになっていた鉄道敷地も、29年の年月を経て1971年9月、沿線の市町(現在は函館市)に払い下げられてしまいます。その後、一部の区間は生活路や遊歩道、農道として使われました。

今も当時の姿を残すコンクリートアーチ橋

▼完成から70年を越える今、崩れた場所やひび割れも確認できる

ひびや多少の崩れは確認されるものの戦後70年以上を経た今も当時の姿を残している理由は、アーチの形状はもちろん、施工を七区分したブロック工法にもあると言われています。

ブロック工法とは温度変化によるコンクリートの凝縮で亀裂ができるのを防ぐために、一区分の施行後、二日間放置・凝固させてから次の区分の打設を行う方法です。これによって路盤に浸透した雨水が継ぎ目から染み出ていきます。この継ぎ目がコンクリートに亀裂を生じさせない働きをしていると考えられており、無筋構造ながらいまだに橋を揺るぎないものにしています。

多くの労力をかけて造られたものが、その目的を一度も果たすことなくただ朽ちていくわびしさ。未成線「戸井線」のコンクリートアーチ橋「汐首陸橋」を目の前にしたとき、何を思うのか? 一度訪れてみてはいかがでしょうか。

参考文献:『北海道鉄道百年史(下)』『北海道鉄道なんでも事典』『恵山町史』『戸井町史』