北海道函館市の人気観光スポット「五稜郭」。一方で、同じ函館市内には「四稜郭」もありますし、「三稜郭」もあった?! との噂も。函館市内の四稜郭・三稜郭の謎に迫ります。
上空から見ると蝶のように見える「四稜郭」
言わずと知れた函館を代表する観光地「五稜郭公園」。上空から見ると五角形の星型になっている城郭跡を公園化したもので、1952年に特別史跡に指定されました。五稜郭タワーも隣接し、上空からの姿をはっきりと確認することができます。
五稜郭ほど日の目を浴びないものの国の史跡に指定されているのが「四稜郭」です。「しりょうかく」と読みます。五稜郭とは直線距離で3.3㎞離れた北東、陣川町の高台に築かれました。名称通り上空から見ると四つの角があることからそう呼ばれてきました。実際に上空から見ると蝶が羽を広げたようにも見えます。
大きさは五稜郭よりも小さいものでした。五稜郭の総堀は最大30mの幅、深さ4~5mありますが、四稜郭は幅2.7m、深さ1mもない空堀に囲まれました。双方ともその内側に土塁が築かれていますが、五稜郭の本塁の高さ7.5mなのに対し、四稜郭の土塁は高さ3mほどと半分以下。四稜郭のサイズは東西約100m、南北約70m、郭内面積約2300平方メートルで、12万平方メートルある五稜郭の50分の1程度しかありません。
完成からわずか数週間で陥落した「四稜郭」
五稜郭は江戸時代末期の1866年に築城されたのに対し、四稜郭はその3年後、明治初期の1869年に築城されました。建設は旧幕府脱走軍の大鳥圭介氏が指揮したと考えられており(諸説あり)、函館一帯を一望し、五稜郭の背後を固めるために築かれました。
地元の言い伝えでは、四稜郭は旧幕府軍脱走兵約200名と赤川・神山・鍛治村の約100名の村民を動員して、数日間の突貫工事で完成させたとしています。郭内の四隅に砲座は設置したものの、建物は建設されませんでした。
しかし完成から1か月たたない5月11日未明、新政府軍が四稜郭の攻撃を開始すると、松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍の防御もむなしく数時間で陥落、五稜郭へと敗走せざるをえなくなりました。5月18日には五稜郭が開城され降伏、こうして箱館戦争は終わりました。ここは箱館戦争終盤の戦場の舞台となった地でもあったのです。
箱館戦争終結後かなり荒廃が進んだ四稜郭は、昭和9年1月22日に国指定史跡となり、1973年に崩壊した土塁などを復元し現在に至ります。なお、北斗市の史跡松前藩戸切地陣屋跡も同じ四つ角の星形城郭になっています。
函館市北部には「三稜郭」もあった?
箱館戦争で砲台として使われた台場として、五稜郭、四稜郭に続き、三稜郭もあったとの説があります。「三」というからには上空から見たら三角形なのでしょう。しかしその場所はまだ謎に包まれており、推定される場所が複数あります。
その一つが、函館市北部、五稜郭から約4㎞北西にある「桔梗野台場跡」で、国道5号線沿いの比遅里神社の土地の形状がそれではないかと推測されています。もう一つの候補地はその数百メートル北にある宝皇寺です。
元となったのは『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(西ケ谷恭弘)にある「図絵に見る限り三稜郭であったかと思われる」の記述や地元郷土史文献。2000年代はじめに函館北高校郷土研究部が研究を行い、比遅里神社を三稜郭の最有力候補と結論しています。
比遅里神社を訪れてみると、それほど大きくない敷地ですが、確かに三角形の土地の形状の台地になっていることがわかります。その南端の尖った敷地には土塁の跡がいまも残されています。まだ研究段階ではっきりと確定したわけではありませんが、五稜郭・四稜郭とともに、謎多き三稜郭の候補地を訪れてみるのもいいのではないでしょうか。
ちなみに、七飯町峠下には「峠下戦争勃発の地」「峠下台場跡」があります。これは1868年、フランス人ブリュネ氏が指揮して旧幕府軍が築城した約20m×約12mの土塁で、尖った部分が七つある星形城郭は「七稜郭」と呼ぶに相応しい台場跡です(正式名称ではありません)。標高349mの山中にあるため気軽に訪れるのは難しいかもしれません。