坂本龍馬(さかもとりょうま)といえば、歴史の教科書にも登場する幕末時代の人物(1835-1867年)。道内には坂本龍馬と意外な関係のある地域があります。
坂本龍馬と北海道の関係
土佐藩に生まれた坂本龍馬自身は、1860年代までに蝦夷地(北海道)への移住計画を立てていたとされます。土佐の人たちが蝦夷地や北方の視察をしていたため、坂本龍馬も蝦夷地開発をしようと決めます。その蝦夷地開拓を「生涯の仕事」と位置付けるほどの意気込みでした。
1864年、浪士を集めて蝦夷地移住計画は実行に移されようとしていましたが、同年の池田屋事件発生で計画は中止。1867年に暗殺されてしまい、北海道移住の夢はかないませんでした。
・坂本直(1842-1898)
=龍馬の姉・千鶴の息子の高松太郎だが、後に龍馬の養嗣子となる。
・坂本直寛(1853-1911)
=坂本直の弟で龍馬の甥。坂本家5代目当主で北光社創設メンバー。
・坂本直衛
=坂本直の息子。独身で若くして死去。
・坂本直行(1906-1982)
=坂本直寛の孫で坂本家8代目当主。山岳画家。
わかりやすい坂本家家系図についてはこちら
坂本家と函館の関係 (坂本直)
坂本龍馬には姉の千鶴がおり、その息子である高松太郎を後に坂本直に改名、後継者のない坂本龍馬の養嗣子に、つまり家督を継ぎました(1842-1898)。坂本直は明治維新後、蝦夷地に渡り箱館五稜郭で箱館裁判所に勤務しました。
坂本家と北見の関係 (坂本直寛)
坂本直寛(旧名:高松南海男)は坂本直の弟。つまり坂本龍馬の甥にあたります。坂本直寛は坂本家5代目当主です(1853-1911)。坂本龍馬の意思を継いだといえるのが彼でした。1895年に坂本直寛が中心となって、高知県であの有名な移民団「北光社(ほっこうしゃ)」を設立。1897年5月に家族など約100戸を従えて北見クンネップ原野へ到着、開拓が始まりました。
現在その名残が、「北光社農場本部跡」「坂本直寛顕彰碑」などに残されています。今はなくなってしまいましたが、ふるさと銀河線の北光社駅はその移民団の名前から付けられたものです。北光社は北見市の発展に大きく寄与しました。
坂本家と浦臼の関係 (坂本直寛・坂本直衛)
1893年、高知県から武市安哉らが浦臼町札的(さってき)に入植し聖園農場を創設しました。そんな浦臼の地に坂本直寛がやってきたのは北見入植の前の1896年。北見開拓の協力を求めて同じ高知県を故郷とする聖園農場の人々のところへ立ち寄りました。
1897年に北見に到着した北光社の中心人物だった坂本直寛は、北見の農場開拓主導を1年ほどで切り上げて、妻と4人の子供を連れて浦臼聖園農場に再びやってきて農場を継承しました。1902年に布教活動を行うため旭川にも行き、1911年に札幌市内で死去しました。
1899年、坂本龍馬の養嗣子坂本直の妻 留(とめ)、及び長男坂本直衛が、坂本直が死去したことに伴って、高知から浦臼の坂本直寛のもとに移住してきました。空知管内浦臼町には「坂本龍馬家の墓」(1917年建立)があり、この2人の墓となっています。「坂本直寛屋敷跡」も浦臼町内にあります。
坂本家と十勝の関係 (坂本直行)
坂本龍馬の養嗣子坂本直寛の孫は山岳画家の坂本直行(1906-1982)。通称「ちょっこう」とも読みます。釧路で生まれた坂本家8代目当主。北大農学部入学後、1936年から十勝管内広尾町に入植・生活し、十勝の大自然を描いてきました。1965年から札幌市に住みました。十勝管内中札内村に「坂本直行記念館」があります。帯広銘菓「六花亭」の包装紙のイラストは、実は坂本直行の作品です。
こんなふうに、坂本龍馬と何かと縁がある北海道なのでした。今も一族の一部は北海道に在住しています。