【豊浦町】 何も知らずに「ラーメン橋」と聞くと、河川や道路・鉄道に架かっている橋をイメージする。でも実際は地下道だったとしたら……?そんな「橋」が豊浦町にある。しかも、道内初・最古の地下歩道だという。
道内で古い地下歩道といえば、1969年8月に着工・10月に竣工した函館市内初の五稜郭交差点地下歩道(函館市)、1970年着工・1971年竣工のさっぽろ地下街(札幌市)などがある。しかし、その数年も前に、噴火湾に面する小さな町・豊浦町に地下歩道が建設されていたのだ。道内では当時、地下トンネルの前例はなく、建設に当たっては道の開発局部内でかなりの論議を呼んだと、豊浦町史は記録している。
ところで、そもそもなぜ豊浦町で地下歩道が建設されるに至ったのだろうか。
通学用として、橋ではなくトンネルを選択
地下トンネル建設の背景には、1962年に完成した国道37号線(室蘭~長万部間)の影響が大きい。豊浦町内では、JR室蘭本線のすぐ北側に沿うようにして国道が建設された。豊浦町市街地は線路と国道の南西側、しかし、児童や生徒たちが通う豊浦小学校・豊浦中学校・豊浦高校(2006年閉校)はすべて線路と国道の北東側、と、完全に分断されてしまっていたのである。
そこで特に問題となったのが、563人が通う豊浦小学校だった。大多数が線路・国道の南側に住むとあって、登下校時には車通りの多い国道を横断しなければならない。当然危険性が指摘され、父母の間にも不安が生じたという。
当時の小学校長らは国道建設計画の時点から安全対策を求め、通学路として橋またはトンネルを設置してほしいという請願書を町に提出していた。町は室蘭開発建設部と検討、橋だと鉄道と国道をまたぐ長いものとなり冬季の除雪を考えると不向きだということになり、トンネル建設に向けて話は進んだ。
こうして1964年8月15日、通学トンネル建設に着手し、札建工業株式会社が総工費760万円かけて約3ヶ月かけて建設、同年11月12日に延長40m・径間3.5m、軸長11,200の「学校通り橋りょう」(南側出入口には「豊浦跨道橋」と表記)が完成した。この名称からも、建設当時トンネルというより橋として認識されていたことが分かる。そして、トンネル内部に階段が多く縮れたラーメンのようであることから、いつしか「ラーメン橋」と地元で呼ばれるようになった。
ラーメン橋は階段が多いトンネルだった
実際に「ラーメン橋」を訪れてみると、内部は実に階段の多いトンネルであった。[地図] これは土地の段差がある関係である。国道のほうが高くJRのほうが低い。北側の出入口は国道37号線沿いにあり、そこから南側に下る。階段は二段構想で、北側の階段は少し急で段数が多く、続いて6段の階段がさらに設けられている。一方、南側の出入口の段数は少ない。
▼北側から入ってみる
▼南側から入ってみる
もともと児童用のためか天井は総じて低く感じられ、階段左右と中央には手すりが設けられている。長万部方向の隅には黒いパイプが続いている。トンネル開通当時から地元の子供たちが清掃や除雪作業を行うなど維持管理に参加しているといい、壁面には子供たちの絵が描かれ、古いトンネルとはいえあたたかな気持ちにさせてくれる。
現在も、登下校時には児童・生徒が多く通り、それ以外の時間帯でもまばらであるが町民が利用している。なぜか「ラーメン橋」と呼ばれ親しまれてきた、歴史ある豊浦町の通学用地下トンネル。少し立ち止まってトンネルを散策してみるのも楽しいのでは。(参考文献:豊浦町史)