ラッコをめぐる道内の歴史

釧路川で大人気になったラッコ。小さいまん丸の目が愛らしい動物です。道内でもあまり見かけないラッコですが、かつては道内にはふつうに見ることができる場所がありました。

ラッコとは?

 ラッコは、分類上カワウソの仲間です。生息域は北極海から南は北米のカリフォルニアまで、北極圏近くとされています。体長は60cmほどから最大130cmで、雄が大きくなると40kgの体重になることもあります。ちなみに、「ラッコ」(rakko)という名前の由来はアイヌ語なのです。

 海で生活する哺乳類です。海面にあおむけになっている光景が印象的で、おなかの上に石を乗せて貝殻をかち割って食べています。海で生活できるように後ろ足に水かきがあります。また、寒い地方で生活できるように、下毛の長さが2.5cmほどあります。

 ラッコには3種類の亜種(アジアラッコ、カリフォルニアラッコ、アラスカラッコ)がありまして、日本に近い海域に住んでいるのは、千島列島や太平洋西部に生息するアジアラッコで、ときたま北海道にやってくるのはこの種類です。

乱獲されたラッコ

 環境省レッドリスト絶滅危惧IA類(CR)に指定されています。これまでに国際的にも条約によりラッコを保護しなければならなかったほど、ラッコは絶滅の危機にひんしていました(もちろん今もそうですが)。

 どうしてそれほどにまで追い込まれてしまったのかというと、毛皮のためです。前述のとおり、ラッコの毛皮は寒い海域で生活できるようになっています。

 毛の密度が高く(1cm2あたり10万本)、毛と毛の間の空気が断熱の役割を果たし、手触りも良好です。これが高級毛皮として高く取引されるようになり、そのために乱獲が行われました。

日本におけるラッコ猟

 こうして、20世紀初頭までに絶滅寸前になりました。日本も例外ではなく、特に北海道では、オホーツク海沿岸、襟裳岬など東部でラッコが生活していましたが、同様の理由で定住ラッコはいなくなりました。

 アイヌ語由来であることからも分かるように、かつてアイヌの人たちは千島列島と北海道本土の間で毛皮貿易を行っていました。アイヌのユーカラにも登場することがあります。

 江戸時代の1800年には、高田屋嘉兵衛が択捉島の場所請負人となり、ラッコ捕獲を始めました。松前藩はアイヌとの交易でラッコの毛皮を得ていていました。明治時代になると、北海道開拓使がロシアの密猟を監視し、北方領土島民だけがラッコを捕獲できるようにしました。

 1873年には官営のラッコ猟が始まりました。1895年の猟虎膃肭獣猟法施行、2年後の遠洋漁業奨励法施行により、ラッコやオットセイの猟を推し進めました。免許を受けて猟を行ったのは函館の帝国水産会社が大半を占めました。

 それだけでなく、英国人探検家H.J.スノーがラッコを乱獲しました。彼は1872年以降、千島列島を中心に8000頭のラッコを密漁し、近隣のラッコ個体数を激減させた主要人物と言われます。

 その後、ラッコ生息数の急減という危機的状況のため、明治45年4月22日、アメリカが提案した膃肭獣及猟虎保護条約に基づく臘虎膃肭獣猟獲取締法が施行されました。これにより、一転、保護活動が進められました。

 現在では、日本近海では北方領土を含む千島列島に定住していますが、ときおり迷いラッコとして根室市の納沙布岬など道東沿岸部に姿を見せます(2003年以降えりも町襟裳岬には定住ラッコが一匹います)。現在、国内で野生ラッコの姿を見ることができるのは北海道だけです。