2006年。1606年(慶長11年)から数えて400年目。何の節目の年でしょう
か。それは、渡島管内松前町にある「松前城(=別名:福山城)」の完成か
ら数えての400年目。松前町では「松前城築城400年祭」という記念イベ
ントを開催するようです。今回はそんな松前城(福山城)についてスポッ
トを当てていきます。(※蝦夷地ではなく北海道と表記しています)
松前城(福山城)データブック!
まずは松前城の基礎知識です。どんな城なのでしょうか。「日本最北」
かつ「北海道唯一」かつ「国内最後」の日本式城郭です。ですが、それ
は1854年に完成した「松前城」のほう。1606年に完成したのは「福山館」
と呼ばれており、これが松前城の前身です。
ですから、日本最後の日本式城郭完成から400年、というのではありま
せん。前身の福山館から数えます。まず福山館があり、その後、幕府の
命令により新しい城を築城したというわけです。館時代と城時代の大きく
わけて2つの歴史があるということになります。
長々と文章に書いてもわかりづらいので、箇条書きで簡潔に。
●福山館(※松前城の歴史はこの完成年から数える=松前藩スタート) | |
築城者 | 松前慶廣(よしひろ、初代松前藩主) |
築城着手 | 1600年(※それまでの徳山館焼失をきっかけに築城着手) |
完成年 | 1606年 |
(焼失) | 1637年 |
(修復) | 1639年 |
奥州移封 | 1807年(※幕府が北海道支配、館は奉行所となる) |
移封解除 | 1821年(※福山館返還) |
↓↓幕府より海防目的で新城築城を命じられる↓↓ ●松前福山城(※道内唯一/日本最北/国内最後の日本式城郭となる) | |
築城者 | 松前崇広(たかひろ、第17代松前藩主) |
設計者 | 兵学者高崎藩市川一学(いちかわいちがく) |
築城着手 | 1850年 |
完成年 | 1854年(9月) |
落城年 | 1868年(11月・箱館戦争時・3分の2焼失) |
奪回年 | 1869年(4月) |
取り壊し | 1875年(城郭20年の命、天守・本丸御門・表御殿を除く) |
国宝指定 | 1941年 |
(天守焼失) | 1949年(6月・市街地火災が飛び火・国宝指定解除) |
重要文化財 | 1950年(本丸御門のみ) |
再建着工年 | 1959年 |
再建完成年 | 1961年(松前城資料館として現在にいたる) |
北海道遺産 | 2001年 |
正式名称 | 松前福山城(当時) |
形状 | 平山城 |
建築費用 | 10万両程度(江差~箱館の住民の献金・増税で賄う) |
敷地面積 | 東西240m、南北300m、約77800m2 |
構造 | 三層三階型天守閣、本丸・二の丸・三の丸 |
城門の数 | 16門 |
砲台の数 | 7(城外9)基 |
やぐらの数 | 6基 |
復元 | 天守、天神坂門、搦手二ノ門 |
現存 | 本丸御門(国重要文化財) 旧松前城本丸表御殿玄関(北海道指定有形文化財) |
松前城の様々なエピソード!
新城築城場所候補に箱館があった?……1849年の幕府による新城築城
命令に際し、候補地の一つに箱館の函館山という案があったようです。し
かしそれは実現せず、これまでの場所、つまり福山館があった場所に築城
(改築)することになりました。
当時は松前が政治経済の中心地であり、城の移転は首都移転みたいなも
の。当時道内三大港の一つ松前港と城下町が寂れてしまうこと、予算がな
い、松前藩にとって先祖代々の地である、などが主な理由となりました。
実は中途半端な城?……松前城に行ったことがある方ならおわかりか
と思いますが、港から松前城までは急勾配な坂があります。つまり狭いの
です。こうした地理的要因から、福山館を拡張改築するといわれても、そ
れほど大きな城郭にはできなかったようです。
日本最後の日本式城郭なわけとは?……日本最後といわれるのには、
再建改築当時がちょうど幕末期にあたるようなときであったことも理由の
一つですが、もう一つ、当時は新城築城が禁じられていた時期でもあった
からです。そんな中幕府から北方警備を理由として北海道の松前藩にのみ
新城築城命令が出されたため、国内最後となることができました。
小学校として使われた旧表御殿玄関……松前城取り壊しの際に残され
た3つのうちの一つ、旧松前城本丸表御殿玄関は、松城小学校として使用さ
れていたようです。その後1982年まで小学校の一部として活用、後に解体
保存され、2001年に松前城敷地内に復元されています。
取り壊された松前城のかけらはどこへ?……1875年の松前城取り壊し
があったわけですが、天守、本丸表御殿、本丸御門の3つを除いて、堀も
石垣もすべてとっぱらいました。開拓使の黒田清隆の命令により行われま
したが、理由としては、生活の苦しい旧士族らの暴動本拠地となる可能性
があったため。取り壊された部品は民間へ払い下げられ、石垣だった石は
新しい港の波止場となったようです。