囚人道路と鎖塚と網走刑務所

 上川・旭川から北見峠、遠軽、留辺蘂を経て北見、網走へと続く中央横断
道路の北見道路は、別名「囚人道路」と呼ばれています。網走刑務所の前身
はこの道路開削に関係して作られました。

囚人道路と網走刑務所

 中央横断道路は、札幌から旭川、遠軽、北見、網走へ至る道路で、明治
時代に急ピッチで開削工事が行われました。その理由は、ロシアが南下政策
をとるため、旭川に常駐する屯田兵がオホーツクに出ることができる道路を
作って対策を取らなければなりませんでした。この道路に限らず、蝦夷地
北部・東部には交通網整備が急がれました。

 その工事には、お金がかからない労働力とされていた囚人たちが強制的
に働かされました。そのため囚人道路と言われてきました。着工は1891年で、
約半年後の年内に竣工させるという強行日程で完成しました。

 使役された囚人は約1000人。空知監獄から、そしてもう一つ現在の網走
刑務所の前身の釧路集治監網走外役所からも囚人が駆り出されました。
実は、この網走の刑務所は、北見道路開設のために新設されたのです。

 網走に刑務所が設置されたのは1890年3月のこと。釧路管内標茶町に設置
されていた釧路集治監の別館として網走に設置され、囚人が50人移され、
1891年には800人が移されました。後に網走刑務所となりましたが、こうした
経緯で設置されたわけです。

鎖塚

 囚人には劣悪な環境と過酷な労働をさせたわけですが、金子堅太郎氏が
悪人は酷使するのは当然、死んだら経費節約になるという考えがあった
ためで、そのため、死亡者数約200人、病気やけがでは約900人といわれて
います。

 逃亡を防ぐ目的で、2人が鉄の玉がついた鎖を足に付けられて労働させ
られました。たとえ死んだとしても、それをつけたまま埋められることが
ありました。その埋葬地には地面から膨らんで土が盛られたことから、
「鎖塚」という名称がつけられるようになりました。また、その後には、
タコ部屋労働が広まることになります。