カツゲンはいつ、どのように誕生した?その歴史に迫る

現在道内を中心に販売されている雪印メグミルク製造「ソフトカツゲン」。そのカツゲンのルーツを探る第1回目、カツゲンが誕生するきっかけとなった出来事についてです。カツゲンはどのようにして生み出されたのでしょうか。

カツゲンのルーツは昭和初期

ソフトカツゲンパッケージ

カツゲンはどのように誕生したのでしょうか。カツゲンのルーツは昭和初期にまでさかのぼります。まだ雪印乳業ではなく、前身の北海道製酪販売組合連合会(酪連)が雪印という商標を使いだした後のことです。1925年に北海道で創業した同組合は、昭和初期にアイスクリームやチーズの製造販売を開始していました。酪連は国内における過剰バターを調節し市場の混乱を防止すべく1935年10月1日に大連事務所を開設、これが大陸進出の第一歩となりました。

1937年に勃発した「日中戦争(日華事変)」により様相が一変します。酪連にとっても外貨獲得の国策にそって中国市場進出が望まれました。現地視察の結果、上海に事務所、天津・南京・京城の3カ所に出張所を開設することが決定されました。

カツゲンの歴史を語る上で注目したいのが、上海事務所及び工場です。新民路第59号に国民軍関連施設の建物がありました。しかし戦争のため使用に耐えないほど破壊されていたため、1938年6月10日に建物の使用許可を得、整理補修・設備整備した上で「上海工場」としました。また同年7月10日には北四川路461号に「上海事務所」も開設されました。こうして、乳酸飲料誕生の舞台が整いました。

軍から要求された飲料水開発

ところで上海工場は、軍からの要請に応え、必要に迫られて整備したものでした。なぜ軍から注文があったのでしょうか。これには、当時の派遣軍の状況が大変厳しいものだったことが関係しています。

大日本帝国陸軍の中支那派遣軍が進出するに際し、派遣先である中支は5月中旬頃から酷暑のため将兵の飲料水が不足していました。しかも、生水ではチフスやコレラ、赤痢などの伝染病にかかる恐れがあり、一旦煮沸したものでなければ使用できなかったのが派遣軍の頭痛の種だったようです。

ちょうどそのころ、その地域を視察で訪れていたのが黒澤・酪連会長でした。会長が「乳酸飲料はブルガリア菌を含み整腸の効果がある」と説明したところ、軍上海衣糧から、飲料水の代用品として乳酸飲料の生産・納入を求められました。問題は、兵士用の大量の乳酸飲料を供給できるかどうかでした。早速、北海道にいた佐藤酪連専務理事と電報交換。やがて調整可能の目途が立ったので専務理事が直接上海へ赴き、上述の上海工場建設に至ったといういきさつです。

つまり、新たな乳酸飲料の製造を行う上海工場は、軍からの要請に応じて建設されたとも言えるでしょう。では、開発された新たな乳酸飲料はどんなものだったのでしょうか。どのように生産されたのでしょうか。

「活素(かつもと)」の生産開始

こうして上海工場では、新しい乳酸飲料が製造されることになりました。名称は「活素」読み方は「かつもと」としました。意味は、勝つという意味から「活」、牛乳の素という意味から「素」を当てました。

上海工場は1938年7月23日に稼働・生産を始めました。当初は軍からの要請であった「活素(かつもと)」の生産が第一でした。活素(かつもと)は、砂糖を大量に加え、減菌した原液を希釈したものでした。乳酸菌が少なく、現在のカツゲンとは全く違いました。

その原液は当初北海道から送られていました。第1回目は99缶を、活素(かつもと)生産開始約1か月前の6月28日に上海到着、第2回目は345缶が、生産開始半月前の7月10日に到着しました。こうして送られてきた原液を希釈し、瓶詰めして、軍に供給したというわけです。

当初は、(1)希釈すると沈殿する、(2)異常発酵で栓が抜ける、といった問題もありましたが、技術陣の研究でやがて解決されていきました。作業には女性作業員らがあたりました。ちなみに、上海工場ではその後まもなく、バターの包装加工や販売、アイスクリーム製造販売も始めることになります。

要するに「活素(かつもと)」は、原液は北海道生まれですが、製品としては上海生まれと言えるでしょう。そして当初は専ら中国で傷病兵や軍需工場向けに販売され飲まれていたというわけです。では、その後「カツモト」はどうなったのでしょうか。

カツモトの衰退・生産停止

中国・上海工場で生産開始されたカツモトは評判を呼び、その後すぐ、上海だけでなく道内でも生産されるようになっていきます。札幌工場、函館工場、狩太(ニセコ)工場の道内3工場に加え、道外では大阪歌島工場の1工場で生産されました。

1938年度には、カツモトを上海・札幌・函館・狩太の4工場で、翌1939年度には上海・札幌・函館の3工場で、1940年度と1941年度には上海と大阪の2工場でのみ生産になりました。ここから分かるように、道内での生産は徐々に減っていき、ついには生産されなくなってしまいました。その変わり大阪工場での生産が始まりました。1938年度から1941年度までの生産数は以下の通りです(1合瓶で換算)。

年度上海札幌函館狩太大阪合計
1938年度7730001120005400015000954000
1939年度5280008500044000657000
1940年度48400092000576000
1941年度29000068000358000

1945年2月頃からは、戦争末期のため物価高騰で原材料が手に入らず、市販品の製造が困難になります。国内で生産が減少してストップしたのはそのためです。上海では、カツモトを陸軍10000箱、海軍3300箱、航空食500箱、そのほか生豆腐と油揚げを製造する工場になっていました。最終的に上海のカツモトは、台湾からの砂糖供給停止により生産が打ち切られてしまいました。上海工場はアルコール工場に転換を図るも、結局そのまま終戦に至りました。上海支店も政府接収のため1945年9月21日に営業を停止しました。

終戦をもって「カツモト」は記録から消えているため、生産も販売もされなくなっていったようです。しかし戦後から10年ほどたって、類似した乳酸菌飲料の開発が進められることになります。どのような経緯で開発・発売されたのでしょうか。

「活素(かつもと)」時代の年表
1935/10/01 北海道製酪販売組合連合会・大連事務所設置
1938/06/28 北海道から初の活素(かつもと)原液が上海着
1938/07/10 上海事務所開設・2度目の活素原液上海着
1938/07/23 上海工場開設・乳酸菌飲料「活素(かつもと)」製造開始
1945/09/21 上海支店営業停止

※注記:雪印乳業の流れを汲む雪印メグミルクの公式見解では、「活素(かつもと)」が現在の「カツゲン」のルーツとしていますが、当時の開発担当者らの証言や社史等比較検討しそうではないとする説もあります。詳細な記録もないため、また、今となっては当時を知る人がいないため、真相は不明です。

「活源(かつげん)」VS「ヤクルト」

1956年10月、かつて軍人に供給されていた「カツモト」に類似した道内初の本格的な乳酸菌飲料が、北海道内の一般消費者向けに新発売となりました。名称は「活源(かつげん)」。札幌酪農牛乳株式会社(さつらく=雪印乳業と提携)に勤務していた石黒氏が「活力の給源」の意味で命名、さつらくが商標登録したとされています(後の瓶にも緑の字で「活力の給源・カツゲン・乳酸生菌」と表記)。どうしてこの時期に発売したのでしょうか。

1950年代当時の道内の乳業関連企業は、1935年発売以来販路拡大を続ける乳酸菌飲料「ヤクルト勢力」を危惧していました。まだ北海道上陸を果たしていなかったヤクルトより前に乳酸菌飲料を開発・発売することが札幌酪農牛乳(さつらく)の目標でした。開発はさつらく小樽工場で進められたようです。

発売3年後の1959年、雪印乳業の西村工場長は当時の開発についてこう語っています。「誕生までいろいろ苦労がありましたが、皆様にご愛飲いただいたおかげで、今日に成長しましたことを感謝しています。私どもの会社は牛乳が本業で、牛乳、アイスクリーム、ヨーグルトなどを製造して、ご愛用いただたいているのですが、ヨーグルトをもう一歩前進させ、飲みやすい飲み物、つまり美味しくて栄養の高い飲み物を作り出そうというのが、カツゲン誕生の動機です。もちろん原料は牛乳です。」

牛乳には一等乳・二等乳といろいろありますが、カツゲンの原料には最も良質な一等乳が用いられました。この良質牛乳を完全減菌した上、その中に純粋培養した二つの乳酸菌、すなわちブルガリア菌とアシドフィラス菌を入れて72時間培養、菌をふやしました。こうして原液が出来上がるわけですが、このままでは酸が強くて飲めないので、これに砂糖やブドウ糖、果汁などを加え、均質機にかけて均質化したものが原液となり、処理工場に送られ瓶詰めされるという行程です。

このような開発の苦労を経て、ようやく念願かない、ヤクルトが道内発売されるよりも約2週間早く「かつげん」発売にこぎつけました。ライバル意識は内容量と価格にも表れ、ヤクルトは30ml・5円だったのに対し、活源(かつげん)は40ml・5円。広告宣伝も功を奏し、道内ではヤクルトよりも早く広まり浸透していきます。

※ちなみに、雪印乳業と分割したクロバー乳業も、やはりヤクルト進出を脅威に感じ、1956年に復刻版「活素(かつもと)」を1年弱の期間、釧路工場と旭川工場で製造したという、カツゲン開発者(石黒氏)の談話もあります。その後、当時急成長していた上述の「カツゲン」製造に転換したとされています。もしそうであれば、1956~1957年にかけての期間、復刻版「活素(かつもと)」と「活源(かつげん)」の2つが同時に存在していたことになります。発売時期から察するに、以下の表に記される1956~1957年度のクロバー乳業のカツゲン生産量はその復刻版カツモトである可能性もありますが、今となっては真偽不明です。

※同様に、活源(かつげん)誕生に関するさつらく側の公式記録は皆無であり、不明な点が数多くあります。この時期の開発・製造・発売について雪印乳業側の社史には詳細に記録されておらず、委託加工にて発売したとの記録にとどめています。以降の生産記録について詳述している雪印乳業が、カツゲン開発という重要な部分を記録していないことは、雪印乳業が開発に関与していないことを示す、と考えられます。当時開発に携わった石黒氏の証言が唯一の手掛かりとなっており、上記の開発秘話はそれに基づくものです。

初期のカツゲン製造過程とは

瓶カツゲンの巨大レプリカ

カツゲンはどのように製造しているのでしょうか。製造工程は明らかにされていませんが、1956年発売当時の談話から、概ねどのようなものだったかが分かります。そうした記録を見てみましょう。

「活素(かつもと)」として供給されていた1938年のものは、ブルガリア菌が入っていたとはいえわずかで、現在のような乳酸菌飲料とはいえないものでした。活素(かつもと)は、名前の由来の通り、牛乳が素。砂糖を大量に加え、減菌した原液を希釈したものでした。

1959年当時の調査では、顕微鏡で瓶カツゲンのブルガリア菌とアシドフィラス菌を観察したところ、計算の結果1ccに3億2000万の数があったとされています。それゆえに道内初の本格的「乳酸菌飲料」と呼ぶにふさわしいというわけです。

当時の工場長は「ヨーグルトをもう一歩前進させ、飲みやすい飲み物、つまり美味しくて栄養の高い飲み物を作り出そうというのが、カツゲン誕生の動機」と語っています。

原料は牛乳。牛乳には一等乳・二等乳といろいろあるが、カツゲンの原料には最も良質な一等乳が用いられました。この良質牛乳を完全減菌した上、その中に純粋培養した二つの乳酸菌、すなわち、ブルガリア菌とアシドフィラス菌を入れて72時間培養、菌をふやしました。

こうして原液が出来上がるわけですが、このままでは酸が強くて飲めないのです。そこでこれに砂糖やブドウ糖、果汁などを加え、均質機にかけて均質化したものが原液となり、処理工場に送られ瓶詰めされて家庭に届けられた、というわけです。

カツゲンの色は、原料の牛乳に高い圧力と高い温度をかけて完全減菌するときに自然に出る色で、人工的な色ではありません。人口着色なら常に一定の色にできますが、自然の色なので多少異なった色に仕上がる場合もありますが、品質に問題はありません。

また夕方までとっておくと時々沈殿しますが、二種類の菌を72時間培養しカード状(ヨーグルトのような状態)に固まった物を均質機(ホモゲナイザー)で細かく砕き潰すときの機械操作の微妙な調子によるのであり、内容成分には全く関係はありません。

最も重要な過程は乳酸菌培養。ステンレスタンクの中で数えきれないほどの菌が培養されます。絶対空気に触れず次の製造過程に渡されていきます。リジンやビタミンが添加され、完全に均質化されて瓶詰め室に入りますが、このあたりは完全オートメーション化。最初から最後まで絶対に空気や人の手に触れないので、中の菌は生きたまま保たれるというわけ。

以上が1956年に発売された当時の「カツゲン」の製造方法や製造過程です。現在も似たような製法で製造されているわけです。プレーン以外の種類の味や香りを付ける際は、フレーバーを何種類か用意してもらい、それから選定しているといいます。カツゲンは無果汁なので、香り付けなども全て人工的なものです。カツゲン自体が味が濃いものであり、この酸味と合うのは柑橘系に絞られがち。カツゲンらしさがなくなってしまうことがないよう、ベースの味を出しながらの調整を行っています。相性が重要なのです。

雪印乳業やクロバー乳業がカツゲンを製造

カツゲン時代のPR看板

「活源(かつげん)」発売時の製造本数は30000本だったと雪印乳業は記録しています。その後の製造は、札幌酪農牛乳(さつらく)と資本提携を結んでいた雪印乳業やクロバー乳業も委託加工という形で行いました。

翌1957年、より親しみやすい「カツゲン」と片仮名表記になり、雪印の帯広・留萌・奈井江・函館・青森・青森八戸・岩手釜石の道内4工場・東北3工場、合計7工場体制で生産することになります。その後、大阪工場をはじめ他の工場でも生産されるようになりました。

1950年に過度経済力集中排除法のため雪印から分割されていたクロバー乳業株式会社(分割当時は北海道バター株式会社)もカツゲンを製造することに参加。1956年に80cc瓶換算で81000本、1957年に3164000本、1958年に2786000本生産しています。1958年11月に再び雪印と合併するまで生産は続けられました。雪印乳業とクロバー乳業のカツゲン生産量は以下の表のとおりです(単位は80cc瓶換算)。

年度雪印乳業クロバー乳業
1956年度81000
1957年度91090003164000
1958年度278600022192000

その後、雪印ブランドの「カツゲン」になります。1959年12月には、提携していた札幌酪農牛乳(さつらく)新工場を札幌の雪印敷地内に新設。牛乳、ヨーグルト、ピュアジュースを生産したほか、カツゲンを1時間に6000本生産しました。北海道で根強い人気を誇るようになるのはその後のPR活動等によります。

「活源(かつげん)」誕生期の年表
1950/06/XX 北海道バター株式会社(後のクロバー乳業株式会社)分割
1955/01/01 札幌酪農牛乳と提携促進、さつらく製品に雪印マーク使用へ
1956/10/XX 乳酸菌飲料「活源(かつげん)」発売
1957/XX/XX 「カツゲン」と片仮名表記に改称
1958/06/01 雪印カツゲン愛飲者感謝セールスタート
1958/11/01 クロバー乳業が雪印乳業と合併
1959/07/XX 厚生省から特殊栄養食品表示許可(第2537号)
1959/12/15 札幌酪農牛乳新工場を雪印敷地内に新築しカツゲン生産
1959/10/27 長万部町でカツゲンを語る座談会開催
1960/02/01 必須アミノ酸リジンを強化

北海道に根付くカツゲンの味

雪印乳業とクロバー乳業合併後は道外展開として府県に市乳事業展開し、工場設備を増強していきました。マスコミ媒体も活用した結果、1959年以降の生産量は目覚ましい増加を見ました。雪印乳業全体では1965年には3.9倍になったほか、シェアを12.1%から18.2%に上昇。カツゲンのような乳酸菌飲料も例外ではなく、乳酸菌飲料全体で1959年に対する1962年の伸び率は3.3倍にも達しました。

カツゲンの瓶と配達の箱

カツゲン販売の勢いはとどまるところを知らず、道内で知らない人はいないほどになりました。カツゲンは発売間もないころ、東京や大阪、九州でも一時的に生産・販売されたこともありました。しかし特に関西地方をはじめとして味の濃いカツゲンの売れ行きは良くなく、最終的に濃い味が好まれる北海道・東北の一部地域に根付くという結果になりました。

当時のカツゲンは、今より甘みや酸味が強い濃厚な味わいとして知られていました。まさに道産子と相性がピッタリ合った飲み物と言えるでしょう。当時はカツゲン40ml入り瓶と、80ml入り瓶の2種類があり、各地の雪印配給所が牛乳のように各家庭に送り届けるというスタイルがとられていた時期もありました。ですので、当時を知る人の中には、毎日とか、週に1本飲んでいたと記憶している人もいるほど。また、駅の売店や銭湯でも販売されていましたから、湯あがりに牛乳ではなくカツゲンという人も多かったようです。

カツゲン時代を知る人たちの体験談
  • 2歳で札幌駅のすぐ北側に住んでいた頃、カツゲンは小さな瓶で売られていました。お店で針で紙のふたを取って飲みました。記憶ではおまけでシールをもらった覚えがあるのですが……。(鹿追町・Hさん)
  • カツゲンが学校給食に初めて出た時、これ腐ってる!って思って泣いた事があります。初めての飲み物にびっくりした記憶があります。(新得町・Cさん)
  • 子供の頃は銭湯上がったらビンのカツゲンが定番でした♪(札幌市・Bさん)

カツゲンPR活動

現在はほとんど見られませんが、発売当初はカツゲンの広告宣伝が活発に行われていました。たとえば、1958年6月1日~10月末日まで、全道で「雪印カツゲン愛飲者感謝セール」が開催されています。この期間、100日間継続して愛飲した人に抽選券が配布され、11月25日に1000名に東芝電気釜がプレゼントされました。この抽選会には道新なども立ち会い報じられました。

また、カツゲン生産メーカーや販売者による「カツゲン協会」なるものも設立されていました。「ミルク通信」(札幌酪農牛乳発行、雪印ブランド以後は雪印乳業編集室発行)も発行し、その中には「カツゲンくらぶ」というコーナーが設けられました。カツゲンにより体調が良くなった報告や、「家計簿の・予算に入れる・カツゲン代」など俳句(?)も多数掲載されました。

この「ミルク通信・カツゲン版」というカツゲンだけを扱った版から、当時のカツゲン普及活動の様子を見ることにしましょう。1959年10月27日に、長万部町でカツゲンを語る座談会が開催されました。雪印乳業本社工場長や札幌営業所担当者、黒松内販売所管内の国縫配給所・黒岩配給所・今金配給所のスタッフが駆け付け、愛飲者14名と対談しました。

この時、黒松内処理工場で瓶詰めされたカツゲンがサンプルとして提供され、顕微鏡で瓶カツゲンのブルガリア菌とアシドフィラス菌を観察したと記録されています。計算の結果1ccに3億2000万の数があったようです。また、この日参加した人たちは、カツゲンを飲んで体調がよくなったとの体験談を話しました。

カツゲンは北海道限定販売に

雪印乳業は生産の合理化を図ります。1966年4月には、地域によってカツゲン、スノーラック、ソフトヨグール、ヨグールなどで販売していた乳酸飲料姉妹品を、カツゲン以外はスノーラックに統一。新規格品を同年5月から本州全域で発売しました。10月には、北海道と東北の一部で販売されていたカツゲンですが、乳酸菌飲料の将来性や収益性向上のため、カツゲンは北海道のみでの販売としました。

カツゲン生産工場は札幌・函館・旭川・網走・釧路・北見がありましたが、1974年に旭川工場で製造中止になったのをはじめ、1978年にかけて生産を札幌工場に集約していきました(詳細は下部年表参照)。

ソフトカツゲンに改称、紙パックに

現在のソフトカツゲンパッケージ

1978年9月に札幌工場はハスコン充填機一基を新設し、1979年3月1日にカツゲンは紙パック製「ソフトカツゲン」として生産を開始しました。味わいは以前よりソフトに、さっぱりした風味のものに切り替わりました。現在のような誰もががぶがぶ飲めるタイプになったのです。

ちょうど雪印乳業では紙パック化が進められていた時期でもありました。当初ソフトカツゲンのサイズは500mlの紙パックのみでしたが、1980年代以降1000mlサイズのソフトカツゲンが生産されるようになりました。1983年9月以降、札幌工場ではカツゲンがワンウェイ容器に切り替えられ、同年12月に瓶装ラインを撤去、瓶カツゲンの生産が中止されました。こうした瓶から紙パックへの変更により、流通面でメリットが生まれ、販売数は飛躍的に拡大しました。

カツゲンと名のつく製品が他にも生産された?

1959年以降多数の新製品を開発した雪印乳業。カツゲンと名のつく製品が他にも生み出されました。たとえば、1961年4月1日には関連商品として「雪印ローヤルカツゲン」を北海道限定発売、60cc丸瓶・キャップ・ポリフードとしました。

1978年3月2日にはスノーパック500ml入りの「ソフトカツゲン」が北海道で発売されました。1979年3月1日に紙パック「ソフトカツゲン」が生産開始されていますので、それより1年も前に「ソフトカツゲン」という名称が採用されていたことになります。

1984年10月には、180mlチコパックの「チコソフトカツゲン青りんご」が誕生。記録上初めて果実の味を再現したソフトカツゲンが世に送り出されました。1985年10月に、スノーパック1000ml入りの「ドリンクヨーグルト・ソフトカツゲン」が発売。1989年4月にはスリムパック180ml入り「ソフトカツゲンプレーン(青りんご)」が発売されました。いずれも北海道限定販売でした。

飲み物だけではありません。雪印時代に一時期販売された「カツゲンゼリー」、ロッテから発売された「カツゲンアイス」がありましたが、現在は販売されていません。また、「カツゲンキャラメル」も関連する雪印パーラーから販売されており、気軽に持っていける土産物として重宝されています。

雪印関係ではありませんが、2011年夏には、東京都・六本木のバーで、北海道を代表する地域限定飲料であるカツゲンとガラナを用いたカツゲンモヒートとガラナモヒートが、期間限定で提供されたことがあります。カクテルとして用いるのも良いようです。

ソフトカツゲン生産量は横ばい=定着へ

ソフトカツゲンの1000mlと500mlパッケージ

そして現在。2003年にメグミルク発足後、ソフトカツゲンはプレーン味の他に、季節ごとに様々な味を製造してきました。現在プレーンは180ml、300ml、500ml、1000mlの4タイプがあります。500mlはコンビニ主体で流通させており、様々なバリエーションの北海道限定の味を誕生させるのもこのタイプです。1000mlはスーパーなどで販売され、人気の味で長い期間販売されるタイプとなっています。

近年は1日当たり1リットル換算で25000本前後が生産されており、北海道限定販売、宣伝をあまりしない状態でありながら、ほぼ横ばいで推移しています。このことから、北海道においてカツゲン人気が衰えていないことは明らかです。

このように、カツゲンのルーツを見てきました。詳細な記録がなく不明な点も多くありますが、現在残されている記録や関係者への聞き取り調査で、以上のような流れで現在のソフトカツゲンに至るということが分かります。

カツゲン→ソフトカツゲン時代の年表
1961/04/01 雪印ローヤルカツゲン(60cc瓶)を北海道限定発売
1966/05/01 カツゲンは北海道・東北、スノーラックは本州に区別
1966/10/XX カツゲンは北海道、スノーラックは本州に区別
1968/03/XX 網走工場カツゲン充填機・冠帽機設置
1970/06/XX 網走工場カツゲン試験室棟増築
1972/02/28 札幌工場でカツゲン冠帽機更新
1972/10/XX 全国でスノーラック・カツゲンの特売を実施
1974/05/XX 旭川工場でカツゲン製造中止
1974/06/01 スノーラック65ml紙パックKを道内発売
1975/06/11 道内販売分の北海道牛乳も紙パック化
1976/02/XX 札幌工場で乳酸菌棟老朽化のため新増築
1976/10/01 乳酸菌飲料ローリーエース65mlプラスチック入を道内発売
1977/05/01 北見工場でカツゲン原液製造を廃止し釧路工場に移管
1977/12/31 函館工場でカツゲン製造廃止し札幌に移管
1978/03/02 スノーパック500mlのソフトカツゲンを発売
1978/04/15 網走工場でカツゲン製造廃止し札幌に移管
1978/06/10 釧路工場でカツゲン製造廃止し札幌に移管
1978/09/XX 札幌工場ハスコン充填機一基新設
1979/03/01 札幌工場新充填機で紙パック「ソフトカツゲン」製造開始
1983/09/XX 札幌工場でカツゲン生産をワンウェイ容器に切り替え
1983/12/XX 札幌工場瓶装ライン撤去、瓶生産を中止
1984/10/XX 180mlチコパックのチコソフトカツゲン青りんご道内発売
1985/10/XX スノーパック1Lドリンクヨーグルトソフトカツゲン道内発売
1989/04/XX 180mlスリムパックソフトカツゲンプレーン(青りんご)道内発売
2003/01/01 日本ミルクコミュニティ(メグミルク)発足
2005/12/08 日本ミルクコミュニティ札幌工場内に勝源神社設置
2009/10/01 雪印メグミルク設立

カツゲンは体に良い?その栄養価とは

ソフトカツゲンパッケージ

ソフトカツゲンは、二大乳酸菌であるブルガリア菌とアシドフィラス菌が豊富なため体にも良いことでも知られています。当初は予期しなかった効果が後になって表れたと担当者は語っています。ソフトカツゲンではなくカツゲンの事例ですが、栄養価についての記録を振り返ります。

カツゲンの原料は牛乳です。それにブルガリア菌とアシドフィラス菌を入れて培養しているわけです。

ブルガリア菌はブルガリアで発見されたので命名されたものです。ブルガリアになぜ長寿が多いのか調べたフランスの細菌学者メチニコフ博士が発見しました。ブルガリア人は民族独特の食物としてカツゲンのような牛乳製品をもっと原始的な形で常食していると言われています。

一方のアシドフィラス菌は、ブルガリア菌よりもさらに腸の深部に達して活動します。乳児の腸内に自然に生じていて、いろいろな病気の菌類から自然に乳児を守っています。

これら二つを生きたまま保たせるカツゲンなので、人体に与える保健上の効果は科学的にも明らかであるといえます。例えば、市販されているカツゲンの中に大腸菌をいれてみると、30分でほとんどが死滅し一時間で完全に死滅してしまうことが実験で明らかになっています。

また、雪印は愛用者の体験によっても効果を確かめてきました。発売から3年後のカツゲン座談会で、愛飲者からは、胃や肝臓が悪いが飲み続けているうち元気になった、動悸が収まり心臓も良くなった、便秘が治り体の調子が良くなった、気管支喘息発作も減った、などの体験談が話されました。人工栄養児の離乳に使っている人もいました。「食前に飲んでいるが良いか」との問いに対して当時の工場長は「薬ではないのでいつでも良いが、胃腸保護という建前なら食前が良い」と回答しています。

雪印としては、カツゲンの栄養効果を科学的に確信して製造発売したとはいえ、その後製造者も予期しなかった効果も表れてきて、研究のほうが後追い状態だったようです。たとえば、漆かぶれが治ったとか、水虫をカツゲンで全治した例も報告されました。これらは後で効果が判明した数例としています。

雪印乳業は1959年7月に厚生省から第2537号をもってカツゲンの特殊栄養食品表示を許可されました。本来の成分はもちろん、特にビタミンCを80mg%強化。大人一日のビタミンC所要量は50mgですが、カツゲン大瓶には64mg、小瓶には32mgのビタミンCが含まれています。薬ではないので多く飲んで大丈夫、一本で足りないということはありませんと同じ工場長は話しました。

カツゲン発売当初から研究を続け改良をしており、1960年2月からは必須アミノ酸リジンを強化。これは米を食べる日本人に不足がちなもので、それをカツゲンに含めることにしたということです。当時、カツゲン独特の風味や乳酸菌効果などに何ら変化を加えずにリジンを入れることに成功したといいます。

1956年に発売されたカツゲンは、美味しさだけでなく、栄養価についても高い評価を得ていたことになります。味がソフトになった現在のソフトカツゲンも、当時とは異なるとはいえ、栄養豊かな乳酸菌飲料であることに変わりありません。

写真提供:リサイクルショップ&木工房・豆電球(雨竜町)
参考文献
「雪印乳業史 第1巻」1960 雪印乳業株式会社/雪印乳業史編纂委員会
「雪印乳業史 第2巻」1961 雪印乳業株式会社/雪印乳業史編纂委員会
「雪印乳業史 第3巻」1969 雪印乳業株式会社/雪印乳業史編纂委員会
「雪印乳業史 第4巻」1975 雪印乳業株式会社/雪印乳業史編纂委員会
「雪印乳業史 第5巻」1985 雪印乳業株式会社/雪印乳業史編纂委員会
「雪印乳業史 第6巻」1995 雪印乳業株式会社/雪印乳業史編纂委員会
「雪印乳業沿革史」1985/4/30 雪印乳業株式会社/雪印乳業史編纂委員会
「ミルク通信」No.8 S33/12/1 札幌酪農牛乳株式会社
「ミルク通信カツゲン版」No.20 S34/11 ミルク通信編集室発行
「ミルク通信カツゲン版」No.21 S35/2 ミルク通信編集室発行