北海道三大温泉郷の一つ「函館 湯の川温泉」の歴史

北海道三大温泉といえば、登別温泉(登別市)、定山渓温泉(札幌市南区)、湯の川温泉(函館市)のことを指します。その一つである、函館市の湯の川温泉は、これら3か所の中では最も長い歴史を持ち、唯一海岸線に立地しています。函館の湯の川温泉は、いつどのように始まり、現在に至っているのでしょうか。その歴史を紐解きます。

松前藩主も榎本武揚も入った湯の川温泉

函館湯の川温泉郷マップ。現存する温泉旅館では大黒屋旅館が最も古い

湯の川の語源は、アイヌ語の「ユペッ」つまり湯の川に由来しているとされています。昔から自然湧出の温泉だったようです。そのため、早くから発見され、利用されてきました。

湯の川地区の温泉に関する最も古い記録は、日本の歴史でいうと室町時代の1453年(享徳2年)。木こりが自噴している温泉を見つけ、負傷した時に腕の痛みを治そうと湯治に来たといいます。これが、湯の川地区の函館市電湯の川電停前にある湯倉神社の発祥とされています。

その200年後、1653年(承応2年)には松前藩主九代目 松前高広が幼少期の松前千勝丸時代に目の難病の治療のため、母親の清涼院に連れられて湯治したと記録されています。その結果、無事に回復したそうです。(湯の川温泉のキャラクター「ゆのっ子 ちかつまる」はこれにちなむものです。)

1797年(寛政9年)に松前藩が記した記録『蝦夷巡覧筆記』(別名蝦夷地東西地理)には、上湯ノ川村について、「村中二温泉アリ」と記録されていて、当時から知られていた温泉地であったと思われます。

また、『蝦夷紀行』の1799年(寛政11年)8月11日の記録には、「下湯の川に至る。湯の川温泉あり。道の傍に小屋あり。湯沸出る所斗りなり。湯熱ず。然れども浴後、暖にして寒からず。土塘より清水の雑るゆゑなるべし。温泉味ひ少し渋し」などと書かれています。『検考録』では「少温の湯也。眼病に効有」といわれています。

松浦武四郎の『蝦夷日誌』によると、1847年(弘化4年)には、箱館(現在の函館)の川崎新六が湯小屋を建てて庭をしつらえていました。当時から既に、療養目的の湯治向けの温泉として知られていました。1863年(文久3年)頃には、湯倉神社から37.8度の多量の湯が湧き出て、後に和泉仁左衛門が湯の川で最初の温泉旅館を開設しました(1876年(明治9年)。それ以前に旅館は存在した)。

箱館戦争の最中の1869年(明治2年)、旧幕府軍の総裁 榎本武揚が温泉を楽しんでいたほか、近くに野戦病院を開設して200人以上の負傷兵を湯治させていたとされています(それにちなんで榎本町と名が付いた)。彰義隊戦士の丸毛牛之助は『感旧私史』で「疥癬を患へしを以て一週七日間の休暇を請ひ湯川村の温泉に浴せし・・・・・・」と書き記しています。

榎本は、「百尺(約30m)も掘り下げたら必ず熱い湯が大量に出るだろう」と言い残しています。この一言が、函館湯の川温泉の発展の礎となるのです。

函館の奥座敷の発展

趣向を凝らした温泉旅館が多数ひしめく湯の川温泉街

明治中期に入ると、湯の川温泉峡が温泉観光地としての発展を見ます。

1885年(明治18年)、福井県出身の井戸掘り業者である石川藤助が先述の榎本武揚の話を聞いて採掘を繰り返し、ついに高温(100度超)で湯量も豊富(毎分140リットル)な温泉を掘り当てました。場所は湯倉神社向かいの川沿いで、湯倉神社側には「湯の川温泉発祥の地碑」が建っています。

湯の川温泉発祥の地碑が湯倉神社近くにある

この源泉を使って、函館の恵比寿町(現在の末広町付近)で浴場「恵比寿湯」を経営していた義父の石川喜八が1886年(明治19年)12月、温泉宿「石川温泉」を開業。函館新聞に載せた温泉開業の広告は「湯の川村温泉開浴」でした。

アメリカのお雇い外国人による『ケプロン報文』によれば、泉質は炭酸鉄、温度は摂氏35度。1886年(明治19年)に当時の内務省衛生局が編纂した『日本鉱泉誌』には、炭酸アルカリ泉で摂氏44度から52度であり、当時7カ所の源泉があったと記されています。

その後、温泉採掘が続々と行われるようになり、松倉川沿いに温泉宿も立ち並ぶようになります。当時は赤湯系で、次第に湯の川地区は賑わい始めます。明治20年代中頃には温泉湧出箇所は40カ所になったとされています。まだ湯量も少なかった明治初期には住民が100戸にも満たなかった下湯川村地区が、1935年(昭和10年)には1,509戸までに人口が急増したのです。

アクセス向上でさらに発展

函館の奥座敷として函館からの来客が多かった湯の川温泉。そうなるとアクセス向上も重要になります。

1887年(明治20年)には、現在の五稜郭付近から湯の川までを結ぶ電車通(現在の函館市電の通り)が開通。しかし、当時は舗装技術もなく悪路で、雨天時にはぬかるみがひどく、客足が遠のいた時期でもありました。

湯の川温泉電停前には足湯がある

そこで、下湯川村の商人 佐藤祐知が馬車鉄道敷設を決意。それから8年後の1898年(明治31年)に、ようやく函館と湯の川を結ぶ函館馬車鉄道 湯川線が運転開始しました。これが、後の函館市電になりました。この馬車鉄道は1913年(大正2年)に電化されて、函館中心部とは30分で結ばれるようになりました。

さらに1918年(大正7年)10月、旭自動車株式会社(松岡陸三)が函館大門前と湯川松倉橋に日中1時間おきに結ぶバス路線を開設。日本で初めての自動車専用道路(有料道路、現在の国道278号の一部)で運行されました。このバスは昭和初期の1931年(昭和6年)に函館駅構内への乗り入れを行い、列車との接続もされるようになりました。

湯の川温泉と根崎温泉の二大温泉となった大正時代

1912年(大正元年)8月には、吉川太郎吉が松倉川左岸河口付近の根崎で、高温(摂氏82度)でアルカリ食塩泉の透明な泉脈を発見(根崎温泉そのものの発見は1902年(明治35年)と比較的新しい)。開発の結果、多量の温泉を得られるようになり、7~8年後には活況を呈したと言います。これにより、松倉川の東側(旧上湯川村)は白湯系の根崎温泉、西側(旧下湯川村)は赤湯系の湯の川温泉と大別されました。

1917年(大正6年)には、続秀太郎が湯の川側に大型旅館「湯の川ホテル」を開設し、千人風呂を備えました。それに対抗するかのように、3年後には吉川太郎吉が開発した根崎温泉側の海岸に大型旅館「大滝温泉」が開設され、万人風呂が誕生しました。

この前後は、明治期から大正末期まで続いた高級旅館「林長館」など旅館や料理屋が50軒にもなり、活気ある時期を迎えました。1922年(大正11年)には湯の川温泉19軒、根崎温泉11軒の温泉旅館があり、年間利用者数は湯の川温泉が23万人、根崎温泉が18万人、合計41万人だったと記録されています。

こうして、湯の川温泉は利用客を増していき、北海道を代表する温泉地・保養地・函館の奥座敷としてさらに発展していきました。現在の函館市民会館と函館アリーナの場所には岩見次郎が「新世界」を開園し、北海道最大の行楽地としても知られるようになります(後に湯の川遊園地となり1940年(昭和15年)に閉園)。当時は、湯の川八景、北海道十六景の一つとして選ばれるほどの景勝地でした。

温泉枯渇問題と現在

函館市電「湯の川温泉」電停付近の電車通と全体

大正時代、湯の川地区の温泉採掘は営業者それぞれが行っていたため乱掘状態になり、湯量が減少し、赤湯系の温泉は枯渇しました。そのため温泉旅館側も経営に苦心しました。

そこで、1921年(大正10年)に当時の亀田郡湯川村の村長は安定供給可能な湯元を村が管理することを提案。2年後の4月に湯川村が一級町村になってから、湯元管理を村営化しました。

しかし、温泉供給のための木管内にガリ(温泉から出た炭酸石灰を主成分とするもの)が付着して湯量減少するため、3年に一度は管を交換する必要が生じ、財政を圧迫しました。村営源泉は、函館市と合併(1939年(昭和14年)4月)後に市水道局に引き継がれました。

現在の湯の川温泉の温泉湧出量は1日に約7000トンで、平均65度前後と高温。市所有が9本、民間所有が13本、合計22本の源泉があります(2020年現在)。昭和30年代後半からは動力による揚湯が行われて、安定供給が行われています。

民間源泉の一つ、湯元若松(割烹旅館 若松)

戦後は、「湯の川銀座」の温泉枯渇問題、1954年(昭和29年)の大火もあり、オーシャンビューを求めて湯浜町(現在の湯川町1丁目付近)など海岸沿いに大型ホテルが建つようになりました。

1954年(昭和29年)に函館で行われた北洋博覧会開催時には、湯の川温泉街の旅館がこぞって数百万円から千万円を超える費用をかけて客室や浴場を整備したことが報じられました(北海道新聞1954年7月10日)。この年の8月には、昭和天皇が巡幸で湯の川温泉の若松旅館に宿泊されています。

戦後になって大型ホテルが林立するようになった海岸沿いの旧湯浜町エリア(国道沿い)
オーシャンビューの露天風呂も登場した(割烹旅館 若松)

1961年(昭和36年)には湯の川からほど近い場所に函館空港が誕生。空港に最も近い温泉郷となりました。1976年(昭和51年)、湯の川温泉は「北海道温泉保護地域」に指定され、新たな温泉掘削は制限されました。函館市としても温泉資源の保護のための対策を継続して行っています。

著名人が多数訪れた湯の川温泉

湯の川温泉の例

先に書いた通り、江戸時代から明治初期にかけては松前藩主や箱館戦争関係者も湯治に訪れたことがわかっています。下記の通り、歌人など文化人も湯の川温泉を訪ねています。野球のアメリカ代表として来日して湯の川球場で日米試合に参加したベーブ・ルースなど選手陣は「福井館」に宿泊。ヘレン・ケラーは2回函館に来ており、1回目の1937年には「御園ホテル」に宿泊して57歳の誕生日を祝ったと記録されています。

  • 幸田露伴 1869年(明治2年)8月
  • 芥川龍之介 1927年(昭和2年)5月
  • 与謝野寛・晶子 1931年(昭和6年)6月
  • 斉藤茂吉 1932年(昭和7年)9月
  • ベーブ・ルース 1934年(昭和9年)11月
  • 長谷川伸 1936年(昭和11年)10月
  • ヘレン・ケラー 1937年(昭和12年)6月(※1948年(昭和23年)にも来函)
  • 志賀直哉 1951年(昭和26年)6月
  • 司馬遼太郎 1967年(昭和42年)2月

斉藤茂吉が詠んだ句
しほはゆき 湯のたきり湧く 音ききて 海まじかしとおもほえなくに。
ロシア人ひとかたまりに 住みつきて 街のかげなる 家等はひくし。

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参考文献:『函館市史』『湯の川沿革史』『北海道の地名』『函館湯の川温泉旅館協同組合公式サイト』