道北の士別市に、朝日町という町があります。2005年に士別市と合併するまでは北海道の「町」の中で最も人口が少なかった町です。
朝日町には、秋の紅葉スポットとして有名な岩尾内湖があります。今回はその岩尾内湖を訪ねました。といっても、一番の目的は紅葉観察ではありません。
実はこの時期、岩尾内湖の湖底に沈んでしまった幻の町、朝日町似峡(にさま)集落を訪れることができるのです。
岩尾内ダム建設の歴史
岩尾内湖は岩尾内ダムの建設によってできたダム湖です。
北海道開拓の歴史の中で、天塩岳や天塩川の大自然に囲まれた朝日町にも人が住み着き始めました。しかし、この地域は大雨や融雪のたびに洪水に悩まされる土地。死者が出てしまう事故も経験したそうで、地域住民は大変苦労していたそうです。
戦争が繰り返される中で治水事業が先送りとなっておりましたが、1963年(昭和38年)にようやく岩尾内ダム建設に着工。1970年(昭和45年)にダムが完成し、それ以降は洪水被害が皆無となりました。
しかし、元々ダム湖がある場所には、朝日町第2の市街地である似峡集落がありました。
似峡は農業や林業が盛んに行われていた集落。小学校・中学校・郵便局・診療所・農協・鉄工所・木工場・映画館・旅宿・食堂・理容院など……。町としての機能は十分に備わっていたようです。
約170戸・人口800人ほどの住民は、紆余曲折の末、1966年(昭和41年)には立ち退きを完了させました。朝日町内はもちろん、旭川・札幌・士別といった北海道の別の市町村。中には道外へと移転した方もいたようです。
▼水没前の似峡市街(1962年7月撮影)(出典:『朝日町史』)
今は湖底に沈んでしまった似峡集落ですが、ダムの貯水量が減る10月以降はかつての似峡集落の跡地を訪れることができます。
そこには、廃墟や廃村マニアにとっては、たまらない光景が広がっています。
似峡集落跡地を訪ねました
士別市から車で1時間ほどの場所に岩尾内湖があります。岩尾内湖白樺キャンプ場から少し南にいくと駐車場が見えますので、そこが似峡地区への入り口となります。
駐車場から続く道をまっすぐと歩いていきます。この道もまた、当時使われていた道であるようです。
天塩岳に囲まれた草原地帯。草原に風が吹き込む音と川のせせらぎが聞こえてきます。雄大な北海道らしい風景に、この場所での定住を試みた先人の気持ちがわかるような気がしてきました。
奥へ進んでいくと、集落の跡地が見えてきます。
これらは建物の基盤でしょう。
大小さまざまな跡があり、これは民家だろうか……学校だろうか……と思いを馳せながら歩くのが楽しいです。
辺りには建物の跡が散乱していたり、流木が置き去りにされている風景が広がります。このあたりは春から夏にかけては湖となっている場所です。
人気も全くなく、自然の音しか聞こえてきません。なんだかゲームの世界に迷い込んだような不思議な感覚を味わえます。
こちらは農地の跡でしょう。
補償金があったとはいえ、自分が丹精を込めて耕してきた農地を手放す気持ちを考えると胸が痛くなります。資料によると、移転前と同じ職業に就くことができなかった方が少なくはなかったようです。
ところどころにガラス瓶、換気扇のファン、タイヤなど、人の営みを感じる物が置き去りにされていました。
数十年前はこの場所が町であって、人が大勢いたという事実はにわかに信じがたいです。それでもこういったヒントを見ると、少しばかり人気を感じることができます。
当時に思いを馳せて
▼写真は天塩川に架けられていた橋の跡
故郷というのは、ほとんどの場合、訪ねようとすれば訪ねられる場所です。しかし、似峡集落の方にとっての故郷は、既に湖底へと沈んでしまいました。
それぞれの住民に仕事があり、生活があり……。どれだけの覚悟と葛藤の中で自分たちの町を手放す決心をしたのでしょう。
天塩川流域住民の洪水被害を解消した岩尾内ダムの建設。その裏には似峡集落住民の決して少なくない犠牲があります。
現在北海道で生活する者として、この北海道の歴史の断片を理解し、先人に感謝しなくてはならないなと改めて感じました。
参考文献:朝日町『朝日町史』