世界の産油国はサウジアラビアなどの中東諸国に集中し、砂漠の中に建てられた鉄塔の先で赤々と燃える炎の風景を思い浮かべる人も多いことでしょう。
そんな暑い国のイメージからかけ離れた北海道の石狩市に、かつて道内最大級の産油量を誇った石狩油田がありました。この油田は、昭和中期に操業を終えましたが、現在でも石油や天然ガスの湧き出しが続いています。純国産の石油が札幌の北部に位置する隣町・石狩で見られるなんて驚きですよね!
思いがけない情報から冒険心に火がついたところで、早速、現地に向かってみましょう。
オイルラッシュ時代を想像し、思いを馳せながら進む奥の細道……
札幌市内から国道231号線を北に向かい、石狩市八幡(はちまん)地区まで約1時間。そこから道道81号線を当別町方面に進み、札幌スコットヒルゴルフクラブの看板が見えたら左へ。道道527号線に入り高岡地区へ向かいます。ここまではわりと快適なドライブコースで、美しい水田や田畑が広がるのどかな田園風景が続いています。
ニンジンやジャガイモの産地としても知られる高岡地区から五の沢地区へ入りほどなくすると、右手に『普通林道五の沢線』という木製の看板があるので見逃さないで。
ここが石狩油田に続く一本道。入口はいたって普通の(?)山道ですが、対向車が来たらゾッとするほど狭い一車線。奥に行くほど木々の生い茂る圧迫感がありますが、舗装されているだけでもありがたく感じます。
ヒグマなどの野生動物や野鳥がお住まいになっているという五の沢ダムを通過し、さらに奥へ10分。民家はおろか、あまりにも何もない道で少々不安になりますが、まずは右手に見えてくる小さな石段を発見! 車から降りると、どこからともなく漂う石油の匂いで、ここが特別な土地柄だと感じることができます。
一歩一歩、歴史を遡る心持ちで上がると、かつてこの場所にあった「八の沢小学校の門」跡と、「石狩油田 八の沢鉱業所跡」の碑、ここから見える山々が油田のまちであったことを物語る地図が建てられていました。
ただし、この地図を参考にして辺りを見渡しても、当時あった施設の形跡や距離感がまったくわからないというオチもありますが、地図の横にある「火気厳禁」の厳重な注意書きを見つけると、ただただ山間の道を走行していただけなのに、いつの間にか油田地帯に足を踏み入れてしまったのか!という戦慄を感じるかもしれません。
とにかくここでは、ライターなど火の出るものは絶対に使わないことが鉄則です!
幕府の役人が海岸で見つけた油が石狩油田開発のスタート! 一大産業の幕開けに
江戸時代末期の1858(安政5)年。幕府の役人だった荒井金助が、石狩の海岸線に油が染みだしていることを発見し、試堀をしたことが油田の初めて物語。しかし、この時代のボーリング作業はうまくいかず、試堀をしただけに終わりました。
1903(明治36)年には、横浜のインターナショナル石油会社が、本格的な油田の開発に乗り出します。1911(明治44)年になると、油田は日本石油株式会社に譲渡され順調に操業が続きました。
1928(昭和3)年は、さらに大規模な事業に進みます。汲み上げられた原油は、八の沢鉱業所からパイプを使った油送が始まり、石狩川の空中はワイヤロープを渡して経由させ、現在の手稲区にあった北海道製油所まで送っていたのだとか!
現在の静かな石狩川の風景(八幡地区側から撮影)。鮭が遡上するだけではなく、石油産業を担う川だったとは。
石狩油田に携わった企業や延長30kmに及ぶ送油管のスケールなど、戦前の話とは思えない大がかりな産業だったことがうかがい知れます。ここで製油された石油は、道内各地や遠く樺太まで供給していたそうです。
今もなお石油が湧いている! 肉眼で目の当たりできる感動の油田スポット
石段のある場所からさらに車で数分行くと、いよいよ石油の滲出している油田スポットに到着。もう何度となく書いていますが、ここもうっかりすると通り過ぎてしまうほどの場所。最徐行をして、道路からわずかに見える赤い看板を見逃さないで。
油の匂いも強くなり、道路から数メートル入った場所にあったのはこれ! ギラギラした大きな油たまりの真ん中に、石油の噴き出し口が見えます。「これが国産の石油なのか!」と感動して立ち竦んでしまいますが、時間の許す限りじっくりと観賞してみてください。
「火気厳禁」はもちろん「立ち入り禁止」の文字の追加に、ちょっとした緊張が走ります。身を乗り出し、油に近づいて撮影したくなりますが、足もとがどんなことになっているのかよくわからない状態なので十分に気をつけましょう。ほとんど体をなさないロープが張ってありますが、これがまた何とも頼りなく、油たまりと一体化しているような感じです。
(ポコポコポコポコ……)リズミカルに、とめどなく噴き出しています。
天然ガスが噴出する音も微かに聴こえます。深緑色と茶褐色の不思議なコントラストを描いた油たまりは、そのまま下の方へ流れ出ていますが、ススキと笹薮に隠されて行方を追うことは不可能でしょう。何となくもったいない気持ちもしますが……。
これから真夏になると、さらにうっそうと雑草が生えるので、道路からはどこが吹き出し口なのかわからなくなるかも……。確実に見たい人は、春先か草が枯れ始める秋の終わりがオススメです。
そもそもなぜ石狩で石油が採れるのか? その真相はこれだ!
日本の油田は新潟県や秋田県、そして北海道の石狩と日本海側に多く見られますが、それはいったいどうしてなのでしょうか。
いしかり砂丘の丘資料館で地層や油田の研究を重ねている志賀健司学芸員にお話を伺いました。
「石油は、新生代新第三紀中世の地層に多いのですが、その頃といえば2000万年前から1500万年前に日本海が開いたことでそこに珪藻(けいそう)が大発生しました。それがやがて死骸という有機物になり、石油の材料になる地層を作りました」
日本海側に油田が多いのは、大陸から切り離されてできた日本海の地層が由来のようです。
「ただし、石油の成因については、生物は関係ない無機成因説*マントルなどの地下で化学反応によって作られた(地球深部ガス説)、46億年前に地球ができた時に取り込まれた宇宙成因説)と、生物の体が原料とする有機成因説がありますが、実はまだ決着がついていません。しかし石油のほとんどは堆積岩から発見されているので、有機成因説がほぼ勝利といったところですが」
石狩の油田は、1000万年以上前の厚田層という海底の堆積物で、ここに含まれているプランクトンの死骸から石油が生み出されているのだとか! 小さなプランクトンから石油になるなんて、どれだけ多く発生したのかと想像するだけで気が遠くなります。海底深く沈んだ死骸(有機物)は、深海のため酸欠状態になり、微生物による分解がないまま堆積岩(黒色頁岩)になって石油の原料になりました。
古潭港付近にある厚田層の様子。これが1000万年以上前の海底にあった堆積岩だったとは! しかもこの地層は、札幌方面の地下深くに続いているそう。と、いうことは札幌でも掘れば石油が……?
この石油を含んだ厚田層、油を通すことができる盤の沢層、そして盤の沢層に蓋をするような役目をしていた望来層と、まるでミルフィーユのように重なった地層が尾根状の背斜が出現して油が滲み出る地形的条件が揃い石狩油田になりました。
産油産業衰退とともに消えたまちと、郷土の誇りを遺産として残す取り組みも
1929(昭和4)年頃、石狩油田は最盛期をむかえ、年間産油量は10,000キロリットル、原油を汲み上げる油井は188抗と、壮大な油田基地のような風景を作り上げていきます。
油田で働く従業員は250人を超え、その家族がこの地に暮らし、八の沢は神社や小学校、商店などが立ち並ぶ小さなまちになりました。
1941(昭和16)年、太平洋戦争に突入した日本は、石油の輸入がストップ。国策会社の「帝国石油」が事業支援したものの、年産は3,000キロリットルほどに落ち込み、操業の回復ができずに衰退してしまいます。
1960(昭和35)年、江戸末期の試掘から約81年で石狩油田は操業を終了しました。累計産油量は158,111キロリットル。北海道全体の産油のうち60~100%を石狩油田が占めていたそうです。
また、海岸近くの厚田油田(1931~1961年)や、ガトーキングダムサッポロの側にあった茨戸油田(1958~1971年)と、3つの油田があった石狩は、日本の代表的な産油地としての歴史と、それを生み出してくれた地層を、2017年度「石狩遺産006号」として認定。地元の価値を再構築するプロジェクトが立ち上がり、これからも長く語り継がれることでしょう。
現在の八の沢に民家はなく、人々の暮らしたまちは跡形もなく消えてしまいましたが、いしかり砂丘の風資料館では、油田の従業員さんが製作した油井とポンプの仕組みがよくわかる模型や、油田から採取した石油を手に取って見ることができます。
模型から見て取れるように、原油の汲み上げは人の力も必要だったのでしょうか。当時のご苦労が伝わってきますね。
石油の入った瓶はずっしりと重く、とろ~っと動くリアルな油の分離を見ていると、操業当時の「この褐色の油をたくさん産出したい」という情熱、夢や浪漫が伝わってきました。
長い年月が造り上げた地層の恵みや、地球の素晴らしさに改めて感じる石狩油田。八の沢の油田跡を見た後は、資料館にもぜひ立ち寄ってみてください。
所在地:石狩市弁天町30-4
TEL:0133-62-3711
休館日:毎週火曜日、年末年始(変動があるためホームページでご確認ください)
入場料:大人300円(中学生以下無料)
公式サイト