北海道にも凱旋門があった?! 厚沢部町鶉「凱旋門の跡」の謎を探る!

【厚沢部町】戦勝を讃えて建てられる凱旋門。かつて日露戦争(1904~1905年)に道南の厚沢部からも兵士たちが中国大陸での戦いに赴き、その兵士たちの帰還の際、「凱旋門」を建てて、地区を挙げて迎えたそうです。その凱旋門があった場所には現在、「凱旋門の跡」と書かれた柱状の木が建っています。厚沢部の凱旋門とはどんなものだったのか探るべく、厚沢部町を訪れてきました。

厚沢部にかつて「凱旋門」があった

厚沢部町の歴史・文化について写真入りでまとめた「厚沢部町文化遺産マップ・ぐるっと厚沢部たんけんマップ」(2015年3月31日発行・文化遺産を活かした「素敵な過疎のまちづくり」推進協議会発行)は、厚沢部町の鶉(うずら)地区にあった凱旋門についても解説しています。

それによると、日露戦争において北海道出身兵士が所属する第七師団は、中国大陸での戦いに従事。日本軍は、旅順、奉天などで勝利し、ロシア海軍の頼みの綱だったバルチック艦隊を日本海海戦で撃破し、戦争に勝利。1906年3月に厚沢部出身兵士の帰還が決まると、鶉地区と舘(たて)地区の境にナラの巨木で凱旋門を建て、兵士たちを迎えたそうです。道路を挟んで斜め向かい側の、校舎と校庭が残っている旧清和小学校も、「凱旋門の学校」と呼ばれていた歴史があるとのこと。

▼「凱旋門の学校」旧清和小学校跡

凱旋門は長年の風雪で腐朽したために取り除かれたそうですが、いつごろまでその存在があったのでしょうか。厚沢部からは何人ぐらいの兵士が戦地に赴いたのでしょうか。もう少し詳しいことが知りたく、厚沢部町の学芸員の方に問い合わせると、当時のことを記した資料を探してくださいました。

昭和40年代初期まで存在していた凱旋門

▼厚沢部町教育委員会提供「あの歳・この日~ 鶉本村部落誌~」より

その資料、「あの歳・この日~ 鶉本村部落誌~」によると、厚沢部からは数十名の兵士が出征したそうです。そのうち何人が帰還したのかは記されていませんが、町の記録には、1904年に1人が満州で亡くなっていると記されているとのこと。兵士たちの帰還に際し、厚沢部の人々は「凱旋門」を建てて、舘、鶉両地区の児童をはじめ全住民が小旗を振り行燈行列で迎えたそうです。歳月を経て腐朽し、昭和42~43(1967~1968)年ごろに道路工事とも重なって撤去されたとのこと。もしかしたら周辺に存在当時の様子を知る方がいるかもしれないという期待も抱きつつ、現地に赴きました。

新旧が共存する凱旋門跡周辺

厚沢部町鶉、道道29号線沿い。広大な畑をバックにポツンと建つ、「凱旋門の跡」の字が刻まれた柱状の木。向かいには、『カンペシーノ』というしゃれたカレーとコーヒーのお店があります。両者のアンバランスな雰囲気を感じながらお店に入りました。

▼『カンペシーノ』

オーナーの藤岡俊吾さんによると、お店はオープンして3年ほど。ごくたまに、近辺に車を停めて凱旋門跡の写真を撮っている人がいるそうです。昭和42~43年ごろまで凱旋門が残っていたようだというお話をすると、町内会の年配の方2人ほどに電話をかけてくださいましたが、お2人とも、特に記憶にはないとのこと。建てられたころの面影が消えて朽ち果ててしまった凱旋門は、周辺の方にも印象が薄いものだったのでしょうか。

厚沢部出身の兵士たちは、第七師団が置かれていた旭川に向かってから戦地に赴いたのでしょうか。厚沢部町の学芸員石井さんによると、日露戦争後に厚沢部町役場が火事に遭い焼失してしまった資料も多く、また、凱旋門を建てたのは舘地区の人たちだそうですが舘地区の郷土史はないそうです。兵士がどのようなルートをへて戦地に向かったかも当時の軍の機密事項であるため、当時の詳細な様子を行政側の資料から探ることが難しいそうです。

勝利しながらも日本が大きな力を失っていった日露戦争。のどかな田園風景を背に立つ凱旋門跡のしるし。小さな集落から、人々はどのような思いで若者たちを送り出し、無事帰還した兵士たちを迎えたのでしょうか。「凱旋門」には、決して戦争への礼賛ではなく、無事帰ってきた若者たちをねぎらい、村を担っていく若者たちをもう戦地に行かせたくはないという、たくさんの人々の願いが込められていたのではないか、そんなことを考えました。

凱旋門跡
厚沢部町鶉、道道29号線沿い
カレーとコーヒーの店『カンペシーノ』(厚沢部町鶉838)と道道29号線を挟んで向かい [地図]