青函連絡船の歴史を振り返る

本州の青森県青森市青森駅(青森桟橋)と、北海道函館市函館駅(函館桟橋)とを結ぶ、いわずと知れた青函連絡船(国鉄青函航路)。戦時下の壊滅的打撃、そして洞爺丸台風の悲劇といった数々の試練に遭遇しながらも、長年、北海道・本州間の人・物資の輸送の面で、重要な役割を担ってきました。

ここでは国鉄青函航路を中心に、前後して青森と函館を結んできた航路を紹介します。

青森~函館間の航路の始まり

それ以前も船は行き来していましたが、定期航路として始めて設定されたのは明治時代初期の1873年のことでした。1月には開拓使が青森~函館間と函館~安渡(現在のむつ市大湊)間に汽船「弘明丸」を就航させ月3往復合計6往復、また2月には民間初運航として小田藤吉が青森~函館間に蒸気船「青開丸」を就航させ月4往復、それぞれ運航したのです。同年、北海道では函館~札幌間に札幌本道が開通し、道央とのアクセスも以前よりスムーズになった、そんな時期でした。ちなみに、当時は青森駅も函館駅も開業していませんでした。

航路開設後利用者は増加。開拓使運航のものは増強され隔日12往復となります。1879年には三菱会社による郵便汽船が定期航路を開設、引き継ぐ形で、開拓使の航路は廃止されました。その後1882年から共同運輸も加わり、1885年にはその2社が合併する形で「日本郵船」による運航が開始されました。

そして1908年3月7日、国鉄(当時は帝国鉄道庁)によって鉄道連絡船の青函連絡船が開始されました。それから2年間は前述の日本郵船も運航していましたが、1910年3月に航路を廃止し、青函航路は国鉄による独占状態になりました。

ここまでの年表
1873年(1月) 開拓使が青森~函館間と函館~安渡間に定期航路開設
1873年(2月) 青函定期航路では民間初の青森~函館間に定期航路開設
1879年 三菱会社の郵便汽船が運航開始
1882年 共同運輸も青函航路に加わる
1885年 三菱と共同が合併し日本郵船が運航開始、開拓使は撤退
1891年9月1日 青森駅開業
1902年12月10日 函館駅(現在の函館駅とは違う・後の亀田駅)開業
1904年7月1日 函館駅開業
1904年10月15日 函館~小樽間鉄道全通
1906年11月1日 青森駅国有化
1907年7月1日 函館駅国有化
1908年3月7日午前10時 帝国鉄道庁が鉄道連絡船青函連絡船開設
1910年3月10日 日本郵船航路廃止、国鉄一本化へ

青函連絡船時代

1908年3月7日、青函トンネル開通まで続く国鉄による青函連絡船が開業しました。開業時の所要時間は約6時間で、1船目である蒸気船「比羅夫丸(LTJR)」が1日1往復しました。1ヵ月後の4月4日には「田村丸(LFJF)」も加わって1日2往復、所要時間4時間と短縮されました。

1914年からは、艀(はしけ)「車運丸」が鉄道車両運送を開始、1924年には初の列車車両運搬も可能な渡船「翔鳳丸」が運航することになりました。しかしある問題がありました。本州の鉄道車両の連結器は創業以来イギリス由来のため「ねじ式」、一方の北海道は創業以来アメリカ由来の「自動連結器」でした。統一しなければいけなかったのですが、翔鳳丸が北海道の連結器に対応して作られており、1925年7月に一斉に交換されました。北海道に合わせて全国が変更されていったというわけです。

1925年8月には本格的に貨車運搬がはじまりました。従来の艀よりも効率がよく、北海道の新鮮な魚介類が関東に輸送されるようになったはじまりでもありました。1926年11月からは4本線路を備えた貨物専用の船「青函丸」も導入されました。1944年には現在のフェリーターミナル近くに有川桟橋も開設され貨物専用積み下ろし場として活用されました。

ここまでの年表
1908年3月7日 青函連絡船開業(比羅夫丸(1480t/LTJR))1日1往復(6時間)
1908年4月4日 田村丸(1479t/LFJF)就航1日2往復(4時間)
1910年12月15日 函館駅先の函館桟橋を供用開始
1914年12月10日 艀の車運丸が就航し鉄道車両搬送
1915年6月16日 函館駅の先に函館桟橋仮乗降場設置
1918年6月18日 木造貨物船白神丸(837t/NWLG)就航
1918年10月16日 木造貨物船竜飛丸(841t/RFNV)就航
1919年4月3日 貨物専用船第一快運丸(1081t)就航
1919年4月6日 貨物専用船第二快運丸(998t)就航
1922年11月18日 関釜航路の壱岐丸が就航
1924年5月21日 初の客載車両渡船翔鳳丸(3460t/SPWB)就航
1924年10月11日 翔鳳丸型客載車両渡船初代津軽丸(3431t/STDV)就航
1924年10月15日 比羅夫丸引退(後に大阪へ移籍)
1924年11月11日 翔鳳丸型客載車両渡船松前丸(3485t/STND)就航
1924年12月11日 田村丸引退(稚泊連絡船の後大阪へ移籍)
1924年12月30日 翔鳳丸型客載車両渡船飛鸞丸(3459t/STMN)就航
1925年8月1日 本格的に車両渡船の車両運搬開始
1925年9月3日 貨物船の白神丸、第一快運丸、第二快運丸が引退
1926年4月2日 竜飛丸引退
1926年12月12日 初の貨物専用青函丸型車両渡船第一青函丸(2326t/JFYH)就航
1927年6月8日 艀の車運丸が引退
1930年9月 貨物専用青函丸型車両渡船第二青函丸(2493t/VGRM)就航
1930年10月1日 函館桟橋仮乗降場を函館駅へ統合
1936年 艀の車運丸がスクラップ
1940年11月25日 貨物専用青函丸型車両渡船第三青函丸(2789t/JGWN)就航
1942年5月20日 関釜航路の新羅丸(3020t)が就航

戦時下の受難、大量破壊

戦時下の1943年以降1945年にかけて、ワゴン型の船舶が次々と導入されました。1944年7月ごろには全船武装までされるようになります。そして1日21往復に増強されます。そんな中1945年7月14日~15日、青函連絡船”軍団”が壊滅的打撃を受けることになります。

この両日、米軍により青函連絡船及び函館ドックへの一斉攻撃がありました。船は応戦したり避難したりしましたが、第四青函丸、第十青函丸、第三青函丸、津軽丸、第二青函丸、飛鸞丸、翔鳳丸、第一青函丸が攻撃を受け沈没、松前丸は攻撃を受け炎上、第六青函丸も攻撃を受け座礁炎上、それぞれで多数の死者を出しました。ほかに沈没はしなかったものの第七青函丸、第八青函丸も攻撃を受け航行不能になりました。つまり青函連絡船12隻が壊滅し、青函航路が機能しなくなったわけです。

そんな非常事態のため、同年7月17日から海軍の特設砲艦「千歳丸」と特設巡洋艦「浮島丸」が臨時就航、「樺太丸」や稚泊連絡船で活躍していてたまたま函館ドックにいた亜庭丸も借り出されることになりました(8月10日に米軍の空襲で炎上沈没)。また、被害を受けた第七、第八青函丸は早急な修復を受けて7月中に相次いで復帰しました。

ここまでの年表
1943年3月6日 貨物専用青函丸型車両渡船第四青函丸(2903t/JYIR)就航
1944年1月3日 函館駅の2岸壁に加え現在のフェリーターミナル近くに有川桟橋開設(1984年まで使用)
1944年1月14日 W(ワゴン)型車両渡船第五青函丸(2792t/JGVT)就航
1944年3月19日 W(ワゴン)型車両渡船第六青函丸(2802t/JWNT)就航
1944年7月20日 W(ワゴン)型車両渡船第七青函丸(2851t/JGHV)就航(1日21往復)
1944年11月22日 W(ワゴン)型車両渡船第八青函丸(2851t/JECA)就航
1945年2月27日 W(ワゴン)型車両渡船第九青函丸(2851t/JFWA)完成したが函館へ行く際座礁沈没、初の沈没、就航せず
1945年3月6日 第五青函丸吹雪の青森で航路内で初の沈没
1945年6月1日 W(ワゴン)型車両渡船第十青函丸(2851t/JYFF)就航
1945年7月14日~15日 米軍による青函連絡船及び函館ドック一斉攻撃、青函連絡船おのおの応戦や避難、第四青函丸、第十青函丸、第三青函丸、津軽丸、第二青函丸、飛鸞丸、翔鳳丸、第一青函丸攻撃を受け沈没、松前丸攻撃を受け炎上、第六青函丸攻撃を受け座礁炎上、それぞれ多数の死者、第七青函丸、第八青函丸攻撃を受け航行不能
1945年7月17日 海軍の特設砲艦 千歳丸が臨時就航(30日まで)
1945年7月20日 海軍の特設巡洋艦 浮島丸が臨時就航(23日まで)
1945年7月23日 たまたま函館ドックに居た稚泊航路の亜庭丸(3297t)が臨時就航
1945年7月25日 船舶運営会保有の貨客船 樺太丸も臨時就航、第七青函丸修復就航
1945年7月29日 第八青函丸修復就航
1945年8月10日 亜庭丸が米軍に攻撃を受け炎上沈没

戦後処理

終戦直後、関釜航路からの貨客船「景福丸」や貨物船「壱岐丸」、稚泊連絡船から「宗谷丸」も応援に駆けつけ、被害の少なかった第七と第八青函丸を合わせて合計5隻のみで運航を開始しました(後に沈没した第六青函丸も修理されて復帰し、ほかの船も客載車両渡船に改造されるなどして応急処置を行った、1日10往復)。また、青函連絡船監督担当に進駐軍函館停車場司令部(RTO)が就任しました。

1946年になると、GHQはLST(米軍の上陸舟艇)Q021とQ022の2隻を貸し出し改造して、新たな航路である函館~小湊間に就航させました。また、ほかの3隻も一時期GHQ専用船として借り出されたりもしていたこともあったようです。さらに、戦時中は軍艦のように塗装されていた青函連絡船は1946年に通常の塗装に直しています。

1947年11月21日には戦後初の客載車両渡船として「洞爺丸」が、1948年には同じ洞爺丸型が3隻就航、車両渡船も同年に4隻が相次いで新調されて就航、合計14隻体制となりました。こうした新船就航の兆しが見えてきたところで、1948年2月、GHQのLST改造船や、他の航路から応援に来ていた船も撤退、すべてが青函連絡船航路所属となり、1949年暮れまでに18往復にまで改善されました。

ここまでの年表
1945年8月20日 関釜航路から景福丸(3620t)が臨時就航
1945年8月22日 関釜航路から二代目壱岐丸(3519t)が臨時就航
1945年10月9日 W(ワゴン)型車両渡船第十一青函丸(2851t/JLLW)就航
1945年11月28日 第八青函丸青森港で積み込み中に沈没
1945年11月29日 稚泊連絡船から宗谷丸(3593t)が臨時就航
1946年5月15日 W(ワゴン)型車両渡船第十二青函丸(3233t/JWEZ)就航
1946年7月1日 GHQのLST2隻による小湊~函館間航路開設
1946年7月23日 H型初代石狩丸(3146t/JWSZ)就航
1947年9月23日 関釜航路から昌慶丸(3620t)が就航
1947年11月21日 戦後初の客載車両渡船洞爺丸(3898t/JTAP)就航
1948年2月27日 車両渡船北見丸(2928t/JQGY)就航
1948年3月5日 徳寿丸(3619t)が5月2日まで臨時就航
1948年4月7日 車両渡船北見丸型初代十勝丸(2911t/JGUD)就航
1948年5月1日 客載車両渡船洞爺丸型初代羊蹄丸(3896t/JTCP)就航
1948年7月26日 車両渡船北見丸型渡島丸(2911t/JDZQ)就航
1948年8月27日 客載車両渡船洞爺丸型初代摩周丸(3782t/JLXQ)就航
1948年10月22日 車両渡船北見丸型初代日高丸(2932t/JQLY)就航
1948年11月27日 客載車両渡船洞爺丸型初代大雪丸(3885t/JTBT)就航(合計14隻)

洞爺丸台風

1948年に大量に造船し青函航路にあてて安定したかに思われた1954年9月26日。台風15号が北海道へ接近しました。この台風は津軽海峡にも影響を及ぼし、青函連絡船を転覆させました。中でも「海峡の女王」としてお召し船にも使われてきた洞爺丸がもっとも大きな被害となり、後に洞爺丸台風と名づけられるようになりました。国鉄戦後五大事故、そして世界海難史上3番目(タイタニック・サルタナに次ぐ)の事故といわれています。

この日、第七青函丸は函館ドックに入院中、摩周丸は神奈川に出張中でした。以下、1日の流れを簡単に箇条書きにしてみました。

6:30 (3便)青森発洞爺丸
8:15 函館発羊蹄丸
10:00 (5便)青森発大雪丸
11:00 (62便)函館発渡島丸、洞爺丸函館着、青森発石狩丸
11:20 (31便)青森発日高丸
正午 佐渡島の西の沖合100キロまで進んだと発表(コレ自体が間違っていた)
12:30 函館発貨物第六青函丸(引き返し欠航)
13:20 函館発第十一青函丸(引き返し欠航)
14:20 (53便)青森発十勝丸
14:40 (4便)函館発洞爺丸 船長は17時ごろに台風が津軽海峡と判断、ぎりぎり陸奥湾に逃げ込めると判断(ただし定刻であればの条件付)性能が良い理由で出航を決定するが
15:10 引き返し欠航の第十一青函丸の乗客を乗せるため、また、出航直前の停電により可動橋が動かず天候警戒運航見合わせ。青森県の西方沖100キロの海上にあり、中心は968ミリバール。北東へ時速100キロで進行中
15:17 (94便)函館発北見丸、港外で見合わせ
16:20 青森に渡島丸到着
16:30 (9便)青森発羊蹄丸見合わせ中
16:33 日高丸港内で停泊待機見合わせ
イタリア船籍貨物船係留中操縦不能アーネストが固定が切れて漂流
第十一青函丸いったん沖(港外)へ、5便大雪丸を到着させる
17:25 大雪丸いったん沖へ(上記2つは函館駅2岸壁が埋まっているためで、1つはすでにいつでも出発できるようにすたんばっている洞爺丸)
18:00 台風は積丹半島の寿都付近に到達
18:25 石狩丸到着(着岸に苦労し18:30過ぎ着岸)
(この間大きくゆれる洞爺丸内で待機中の乗客の60人は自主下船した)
18:30 気圧が上がり、台風の目通過を確信し洞爺丸出航を決定、だが次第に気圧が再び下がり始めるがいったん出航してみることを決断、実際はまれに見る閉塞前線による晴れ間だった、しかもオホーツク海上の高気圧に阻まれて速度が100kmから40kmにまで減速中
18:39 洞爺丸、遅れ4便として出航
18:50 十勝丸函館港外に到着し見合わせ停泊とした、この時点で洞爺丸以外が見合わせか待機(2隻が港外)漂流船アーネスト1隻という状態、瞬間風速南西の風40m
19:01 洞爺丸、防波堤から1300m地点港外で錨をおろす、函館市街地全戸停電
19:16 大雪丸、アーネスト衝突危機回避から港外へ出ることを決意、木古内湾を目指す、函館駅停泊中の石狩丸の係留が切れ、沖へ、錨を下ろす、このころ全船に滞留(車両甲板に海水が大量に浸入)が起きる
19:57 第十一青函丸が最後の通信
20:00 日高丸も港外への避難を開始、港外に
20:03 函館港外に避難中のGHQ-LSTの船がSOS
20:26 台風避難中の貨物船第六真成丸が七重浜砂浜に座礁
20:30 この時点で7船が港外にて待機中
21:00 北見丸、錨をおろしたまま葛登支沖東方3kmに避難
21:25 洞爺丸、浸水に苦しむ、左舵機関でショート、函館桟橋に電報、風速55m、三等客室窓ガラスが破損、左舵、続いて右舵エンジンが故障停止、非常用ディーゼル発電機始動
22:00 大雪丸、浸水がひどく舵故障
22:20 北見丸、浸水でバランスを崩し沈没
22:23 洞爺丸、海岸から800mで座礁しそのまま流され続け、右へ傾き始める
22:35 北見丸、転覆沈没
22:39 洞爺丸、青函連絡船初のSOS、国鉄が補助汽船を出すがすぐに引き返す、洞爺丸停電、45度の傾き、貨車が横転し始め傾斜速度を増す
22:43 洞爺丸七重浜沖合い600mで横転、沈没、130度回転する
23:40 日高丸、錨を自主的に切断、傾き全員退船を命じ、SOS中に沈没、函館ではSOSを受けて補助汽船出動、港口で日高丸・十勝丸船員を救助、日高丸では56名が死亡し20名が生存
23:43 十勝丸右舵に横転沈没、59名が死亡して17名が生存
七重浜に座礁した貨物船の第六真成丸のまわりに洞爺丸の乗客乗員が流れ着いた、船長はSOS発信を決断するがアンテナが故障していたため張替え作業、0:00前、完了しSOS発信、しばらく誰も答えず石狩丸が応答、状況を把握し、石狩丸経由で打電、第六真成丸では朝まで20人以上を救助。また、七重浜の飛行場の警備員が漂流者らを発見、近くの住民を集めて救助にあたったが、たとえ生きて海岸にたどり着いても仮死状態の人や動けない人には救助の人手不足で手がまわらず、息絶えた人も多い。トラックも函館の病院に運び手伝った
0:00 大雪丸木古内湾に停泊成功したが航行不能に
1:50 風も弱まり第十二青函丸機関停止
未明 函館山裏に着き、頂上めざしのぼった北見丸の船員たちは新聞社の車に救助される、70名が死亡し6名が生存
明け方 第十一青函丸が船首だけを海上に出して沈没しているのを発見される(乗員全員死亡)、七重浜海岸の片付けを行う、船長含め1155名が死亡・行方不明、159名が生存
ちなみに、14隻のうち、青森側で見合わせを守り通したのは羊蹄丸・渡島丸の2隻、沈没は洞爺丸・日高丸・北見丸・十勝丸・第十一青函丸の客載渡船1隻・車両渡船4隻、助かったが航行不能なのは大雪丸、石狩丸。合計乗客・乗員1430名死亡、世界中で函館湾の悲劇として大々的に報じられた。

9月28日から30日までは臨時ダイヤを設定し、10月1日には広島から「徳寿丸」が臨時就航し貨物に、10月13日からは同じく広島の元稚泊連絡船「宗谷丸」が臨時就航し客船になりました。1955年には沈没5隻を引き上げ、函館ドックにて調査、日高丸、十勝丸は修理して復帰就航、残りは解体と決定します。

1955年9月16日、車両甲板への浸水対策など事故の教訓を生かしたディーゼル機関、初代檜山丸(JMMI)、9月18日には初代空知丸(JMMK)が就航します。1956年4月1日には洞爺丸台風で沈没した日高丸を修復し就航、8月31日には同じく沈没した十勝丸が復帰就航を果たしました。1957年10月1日にはディーゼル機関の十和田丸(6148t/JJZR)が就航、青函連絡船初のカラー塗装となり、これにより臨時就航船は撤収しました。

ここまでの年表
1954年9月26日 洞爺丸台風が津軽海峡を襲い、沈没は洞爺丸・日高丸・北見丸・十勝丸・第十一青函丸の客載渡船1隻・車両渡船4隻、合計乗客・乗員1430名死亡
1955年9月16日 事故対策ディーゼル初代檜山丸(3393t/JMMI)就航
1955年9月18日 事故対策ディーゼル初代空知丸(3428t/JMMK)就航
1956年4月1日 沈没船の日高丸を修復就航
1956年8月31日 沈没船の十勝丸を修復就航
1957年10月1日 ディーゼル十和田丸(6418t/JJZR)就航

青函連絡船取替委員会

国鉄では老朽化に伴い、船を取り替えようという動きが出てきました。まずは1965年までに旧式9隻を大型6隻に取り替えるというもの。それで1965年までに客載車両渡船がたくさん造船されました。以前の船の名称を継承しているものもあり、二代目が多く出てきたのがこの時期の特徴です。1965年末には津軽丸型限定で3時間50分で結び、1日23往復ありました。

1967年には自動車積載(フェリー)を開始(当時は6台限定)し、その当時道南海運、青森商船、共栄運輸の3社がカーフェリーを行っていました。1972年の冬季札幌五輪のときには2月20日大雪丸第33便で輸送されました。1970年代には貨物船3隻の交換が決定しました。

運航も改善され、1972年3月のダイヤ改正では1日28往復に最大30往復可能(30分間隔運行)となりました。輸送人員も増加し、1973年8月5日は上り19080人、下り34560人で過去最高を記録、そして有川桟橋発着の便に旅客を乗せたのは、後にも先にもこの日限りでした。その後オイルショック後に航空機が台頭し、輸送量が減少し始めることになります。

ここまでの年表
1964年5月3日 第六青函丸引退
1964年5月10日 津軽丸型客載車両渡船二代目津軽丸(5318t/JQUW)就航・青函連絡船史上最大
1964年8月12日 津軽丸型客載車両渡船八甲田丸(5382t/JRRX)就航
1964年8月31日 大雪丸引退(ギリシャへ移籍、1991年沈没)
1964年10月26日 摩周丸引退
1964年11月30日 第八青函丸引退
1964年12月1日 津軽丸型客載車両渡船二代目松前丸(5376t/JMTO)就航
1964年12月31日 第七青函丸引退
1965年5月16日 津軽丸型客載車両渡船二代目大雪丸(5375t/JPBI)就航
1965年6月20日 羊蹄丸引退(下関へ)
1965年6月30日 津軽丸型客載車両渡船二代目摩周丸(5374t/JHMI)就航
1965年7月2日 第十二青函丸引退
1965年8月5日 津軽丸型客載車両渡船二代目羊蹄丸(5375t/JQBM)就航
1965年8月31日 渡島丸引退
1965年9月30日 石狩丸引退(全11隻体体制)
1965年10月1日 初代十和田丸引退→後に二代目石狩丸となる
1966年10月24日 津軽丸型客載車両渡船二代目十和田丸(5397t/JMUK)就航
1967年5月6日 旧初代十和田丸が車両専用として改造され二代目石狩丸(5397t)として就航
1969年9月20日 日高丸引退
1969年10月1日 渡島丸型車両渡船二代目渡島丸(4075t/JFLQ)就航、国鉄鉄道連絡線最大
1970年4月2日 最後の蒸気タービン初代十勝丸引退
1970年4月5日 渡島丸型車両渡船二代目日高丸(4089t/JBRK)就航
1970年6月30日 渡島丸型車両渡船二代目十勝丸(4091t/JCAO)就航(3時間50分13隻体制)
1976年2月27日 初代空知丸引退
1976年4月5日 渡島丸型車両渡船二代目空知丸(4123t/JQAD)就航
1976年7月5日 初代檜山丸引退
1976年8月5日 渡島丸型車両渡船二代目檜山丸(4107t/JJRE)就航
1977年3月18日 二代目石狩丸引退(売却)
1977年5月6日 最後の船で唯一の三代となる渡島丸型車両渡船三代目石狩丸(4105t/JPHE)就航

青函連絡船の終焉そして青函トンネルへ

乗客が減少する中、洞爺丸台風以後急速に実現が早まることになった青函トンネル建設が着々と進んでいました。

青函トンネルの歴史
1946年4月24日 地質調査開始
1963年2月11日 北海道側で着工式
1964年1月26日 北海道側で斜坑口掘削を開始
1964年5月8日 北海道側で調査抗掘削開始
1966年3月21日 本州側で調査抗掘削開始
1968年12月27日 北海道側で作業抗掘削開始
1970年7月13日 本州側で作業抗掘削開始
1971年9月28日 青函トンネル工事実施計画書提出・認可
1971年11月14日 北海道側で起工式
1971年11月15日 青森側で起工式
1982年 海峡線と命名、1988年青函トンネル開業と決定
1983年1月27日 先進導抗貫通
1985年3月10日 10時5分青函トンネル本坑貫通
1988年3月13日 開業、青森駅から電気機関車牽引の快速列車「海峡」1号が、函館駅から特急電車「はつかり」10号が発車

一方、青函連絡船は乗客が減少する中、1隻1隻使用停止になっていきました。そして1988年3月13日20:50、青函連絡船航路は終了しました。

ここまでの年表
1978年10月1日 渡島丸使用停止、函館ドックにて係留
1979年3月 日高丸使用停止、函館ドックにて係留(1日25往復)
1982年3月4日 津軽丸廃止、函館港に係留後北朝鮮へ売却、北朝鮮船籍
1982年4月1日 石狩丸が客載車両渡船に改造し4965tになって就航
1982年10月1日 檜山丸が客載車両渡船に改造し4958tになって就航
1982年11月12日 松前丸廃止、函館港に係留後北朝鮮へ売却
1982年11月15日 ダイヤ改正1日21往復に
1984年1月31日 十勝丸・日高丸引退、いずれも有川桟橋に係留後売却後スクラップ、青函連絡船は8隻体制になる
1984年2月1日 1日17往復に、有川桟橋廃止
1987年4月1日 JR発足、青函連絡船及び青函トンネル鉄道運営は北海道旅客鉄道(JR北海道)に引き継がれ、元連絡船船員はJR北海道に出向、さらに船員OBを臨時召集、船籍港を東京から函館に変更
1987年4月24日 青函連絡船は青函トンネルと同時に廃止せざるを得ないことを発表、旅客輸送量が上昇
1987年11月25日 JR北海道、青森県、青森市、北海道、函館市による青函連絡船の未来に関する最後の会談で、青函連絡船を1988年3月13日廃止すること、廃止後津軽丸型2隻を函館市青森市に1隻ずつ譲渡すること、1988年夏季に2隻で復活運行することを決定
1988年1月6日 二代目大雪丸検査有効期限をむかえ一足先に廃止・売却、7隻となる
1988年3月12日 空知丸引退
1988年3月13日 青函連絡船廃止、最終便は函館から「羊蹄丸」22便が、青森から「八甲田丸」7便が出港、20時50分到着し青函連絡船最後となる、以後民間フェリー会社が津軽海峡を制する。
1988年6月3日 青函博で期間限定復活、1日2往復羊蹄丸・十和田丸だけ運行、夜は海上ホテルとして開放
1988年9月18日 復活運航終了
1988年9月19日 廃止

青函連絡船80年の歴史データ

旅客運航区間 青森県青森市青森駅青森桟橋~北海道函館市函館駅函館桟橋(最高記録となった1973年8月5日は史上唯一有川桟橋も使用)、貨物は函館市有川桟橋
営業距離
運航開始日 1908年3月7日
運航終了日 1988年3月13日20:50
延べ運航回数 718239回
総運航距離 地球2019周できる80894813km
輸送旅客人員 1億6112万7982人
輸送貨物総トン 2億4697万6302t
最高人員輸送記録 1973年8月5日上り19080人下り34560人
初の船舶 比羅夫丸(1908年3月7日~)
鉄道車両運送開始 1914年12月10日艀の車運丸、1925年8月1日に本格的開始
自動車運搬開始 1967年~
全長最大の船 終盤の6船(二代目渡島丸・二代目日高丸・二代目十勝丸・二代目空知丸・二代目檜山丸・三代目石狩丸)の144.60m
重量最大の船 1955年~初代十和田丸の6418.59t
速度最大の船 二代目空知丸21.79ノット
最大定員の船 初代十和田丸1470名
唯一の木造船 1918年の白神丸と竜飛丸
初のタービン船 田村丸
初の無煙化 初代檜山丸
初の貨客船 翔鳳丸(1924年5月21日~)
初の本格的貨車専用船 第一青函丸型(1926年末~)
唯一の三代目 石狩丸(1977年5月6日~)
初のカラー塗装 1957年10月1日十和田丸
岸壁乗降開始(艀終了) 1924年10月
最終便運航船 函館から羊蹄丸、青森から八甲田丸
唯一の集結 1988年3月14日(廃止翌日)
改造後再就航 1982年二代目檜山丸・三代目石狩丸、1967年二代目石狩丸
改造後名称変更 1967年に旧十和田丸の船を改造し二代目石狩丸として就航
沈没船引上げ再使用 1945年7月14日空襲で沈没の第六青函丸、1954年洞爺丸台風で沈没の日高丸と十勝丸
一度も就航せず 下記の第九青函丸
最短就航期間(応援船を除く) 第十青函丸約40日間(空襲で沈没)
最長就航期間 八甲田丸1964年~廃止まで約8600日間
初の沈没事故 1945年2月27日第九青函丸を函館へ移動中
初の航路内での沈没事故 1945年3月6日第五青函丸吹雪の青森で
最大損害 1945年7月14日~15日に米軍空襲受け12隻損害、港湾設備も被害
最大事故 国鉄戦後五大事故・世界海難事故3番目の洞爺丸台風1954年9月26日、1430名死亡
初のSOS発信 洞爺丸台風1954年9月26日22:39洞爺丸より
運航頻度の変遷……1908年3月7日開業日は1日1往復、4月4日に2往復、1940年12往復、1944年21往復、戦後10往復、1965年23往復、1972年28往復(最大30往復・30分間隔)、1979年25往復、1984年17往復
走行速度の変遷……1908年3月7日6時間、1965年3時間50分

以下は就航船別に就航期間をグラフ化したものです。左から就航順になっており、下から上へ年代順になっております。同時期に就航していた船、1945年の空襲時の壊滅ぶりがよくわかるようになっています。十和田丸は後に改造されて二代目石狩丸となりましたが、ここでは別々になっています。

最後の青函連絡船のその後

会談のとおり、青森港と函館港にそれぞれ1隻ずつ保存されています。函館港には摩周丸が、青森港には八甲田丸があり、博物館・メモリアルシップとなっています。ほかの船は以下のとおりになりました。

●国内残留組
摩周丸: 函館港でメモリアルシップ(函館市へ譲渡)
八甲田丸: 青森港でメモリアルシップ(青森市へ譲渡)
羊蹄丸: 東京都お台場船の科学館の一部(日本船舶振興財団に売却)

●海外移籍組
大雪丸: 横浜港に係留後1996年に転売され、長崎県長崎市長崎港で国内唯一の船上ホテルシップ「ヴィクトリア」として活躍、2005年12月20日にホテルが廃業、転売を繰り返したのち、2008年5月に中国・福建省の造船所に売却
十和田丸: 東京~神戸間の定期クルーズ船「ジャパニーズドリーム」になった。1992年1月に廃止となり転売、フィリピン・マクタン島でホテルシップ「PHILLIPIN DREAM」として活躍
津軽丸: 北朝鮮へ行方不明
松前丸: 北朝鮮へ行方不明
渡島丸: スクラップ
日高丸: スクラップ
十勝丸: スクラップ
空知丸: ギリシャのキプロス船籍ポセイドンラインでフェリー「シーセレナーデ号」として活躍、行方不明
石狩丸: ギリシャのキプロス船籍ポセイドンラインでフェリー「シーハーモニー」として活躍、行方不明
檜山丸: 21世紀少年の船に改造後、岡山県経由で1999年に韓国に売却

そして現在……

現在では、北海道と道外を結ぶ交通機関として利用客が多いのは、航空機の8割以上、JR北海道の173万人(1割程度)、そしてフェリーのわずか7.7%にとどまっています(2006年実績)。青函航路を含む北海道と道外を結ぶフェリー航路についてはこちらをご覧ください。

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