大江村はなぜ仁木町になったのか―62年ぶりの復活劇の舞台裏

後志管内仁木町。隣接する余市町とともに果樹栽培の盛んな町です。仁木町は二級町村制を敷いたとき大江村として成立し、町制施行に合わせて仁木町に改称されました。なぜ、大江村は仁木町になったのでしょうか。その歴史を紐解きます。

北海道では珍しい人名由来の2村が誕生

仁木町は仁木地区と大江地区に大別できます。両地区はそれぞれ、明治時代に仁木村と大江村として成立しました。そして、いずれも人名に由来した地名を付けました。

仁木町の仁木地区と大江地区の位置関係図

まず、1879年(明治12年)11月に、現在の徳島県からの移民団101戸361名が小樽・余市を経て、余市川下流域の平地に集団入植、開墾を開始しました。リーダーは当時40代だった仁木竹吉(にきたけよし)。翌年1880年(明治13年)3月、開拓使余市郡に新村の新設を告げ、リーダーの名前にちなんで「仁木村」を成立させました。このエリアが現在の仁木町仁木地区です。

その1年後の1881年(明治14年)9月、山口県から旧長州藩主毛利元徳(もうりもとのり)の旧家臣、粟屋貞一開拓委員長らが開拓準備のため余市川中流域に入地。翌年7月には19戸95名が到着して、開墾に着手しました。さらに翌年の1883年(明治16年)3月、長州藩の祖先 大江広元にちなみ「大江村」を成立させました。このエリアが現在の仁木町大江地区になります。

(1899年(明治32年)6月には山間部の赤井川村が大江村から分村し、赤井川戸長役場が設置されました。)

合併し「大江村」になった理由

1902年(明治35年)4月1日、二級町村制が施行され、仁木村、大江村、山道村の3村が合併することになりました。合併後の村名は「大江村」に決まりました。

大江村より3年ほど早く開拓が行われた仁木村には、大江村・山道村をも管轄する戸長役場が設置されていましたし、小学校や郵便局も比較的早くに開設されていました。しかし、中流域の大江村は合併に際して「大江地区が地理的に村域の中心に位置している」ことを理由に村名運動を活発化させ、「大江村」の名を勝ち取ったのです。一方、下流域の仁木村は、村役場こそ置かれていたものの、自治体名からは一時的に消えることになりました。

(なお、大江村は1915年に一級町村制に移行しました。旧山道村の区域は1925年に下流域の下山道地区を余市町に編入したことにより、大江村は仁木・大江・上山道地区となりました。)

町制施行に合わせて「仁木町」になった理由

仁木町役場

合併後の余市郡大江村(村役場:仁木地区)として60年以上経過した1964年(昭和39年)。人口増に伴い町制施行することとなり、その際に新町の名称を巡って賛否の声が入り交じるようになりました。

大江村を仁木村に変更した上で町制施行することが諮られたことで、大江地区では強い反対意見がありました。その理由として、「一地区の開拓の指導者の名称を新町名に用いることは、村内全地区の協和にプラスにはならない」などが挙げられました。

とはいっても、村名こそ「大江村」でしたが、行政機関の多くは役場のある仁木地区に集まり「仁木」の知名度が上昇していました。村名変更を支持する声が強くなっていたことは確かです。

そこで村は1964年(昭和39年)8月に村民アンケートを実施。その結果、回答999世帯のうち村名変更賛成が91%にものぼったことがわかりました。

村議会はこの結果を踏まえて、村名変更と町制施行の同時施行を道知事に申請。道議会の議決を経て、同年10月20日付けで道知事の決定がなされ、同年11月1日付けで「大江村」から「仁木町」への村名改称+町制施行することとなりました。その日は、開基85周年・町制施行記念行事が盛大に執り行われました。

仁木町のカントリーサイン

こうして、二級町村制・一級町村制を経て62年に及ぶ「大江」の名は消滅し、自治体名として62年ぶりに「仁木」の名が復活したのです。

参考文献:『仁木町史』