北方領土は戦前どんな場所だったのか―産業・交通・教育・郵便・医療

択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島で構成される北方領土(北方四島)。現在はロシアが実効支配していますが、戦前の日本統治時代はどのようなことが行われていたのでしょうか。産業、交通、教育、郵便、医療の分野から当時を紐解きます。

産業

北方四島での主要な産業は水産業でした。千島海流と日本海流のぶつかるところに近く、世界有数規模の漁場として知られていました。サケマス孵化場なども各島に設置されていましたし、コンブなどもとられていました。

捕鯨所、フジコ工場、エビ、カニ、サケ・マスの缶詰工場が各地に点在していました。1941年のデータでは、択捉島に22カ所、国後島に7カ所、色丹島に3カ所の水産加工工場がありました。最盛期には本州からの出稼ぎ労働者もいたといいます。

中でもコンブ等海藻類の漁獲量は群を抜いていて、全島あわせて167758t漁獲していました。これは海産物漁獲量の8割です。コンブは歯舞群島が圧倒的漁獲量を占め、127000tでした。

択捉島ではコンブのほかにサケマスやタラなど魚類の漁獲量も高かったようです。国後島ではカニやフジコなど水産動物の漁獲量が高かったようです。色丹島は東洋一を誇った捕鯨漁場でした。

サケ・マス・タラ等魚類:16042t
カニ・フジコ等水産動物:22481t
ホタテ・ホッキ等貝類:4984t
コンブ・ノリなど海藻類:167758t

林業や鉱業も行われていました。国後島は森林がうっそうとしており、1940年に5カ所の製材工場が、択捉島では3か所の硫黄採掘場、国後島では4カ所の鉱業所がありました。一方農業は産業として行うのではなく、自家栽培として小規模におこなわれていた程度でした。ジャガイモはよく育ったようです。

また、畜産は馬と牛が飼育されており、農耕・軍用馬、肉牛として飼育されていました。こうしたことから、ほぼ自給自足できており、米、味噌、醤油は道外から輸送する必要がありました。

教育

北方四島では1875年の国後島泊村の寺子屋がはじまりとされています。北方四島での教育の原点は泊村で、その後1880年に択捉島紗那村、1885年に択捉島留別村で学校が創立されました。歯舞群島では水晶島に1903年に寺子屋、色丹島では1917年に色丹小学校が設立されました。

小学校つまり当時の国民学校は、分校を含めると39あったとされています。これは終戦時の統計データですが、択捉島では12学校(うち3は分校など)、国後島では15学校(うち1は分校など)、色丹島では5学校(うち4は分校など)、歯舞群島では7学校(うち2は分校など)。学級数は76学級、児童数は約3000人いました。

択捉島:内保小学校、入里節小学校、具谷小学校、天寧小学校、年萌小学校、留別小学校、紗那小学校、別飛小学校、蘂取小学校、その他分校などは、神居古丹、豊浜、内岡に設置
国後島:国後小学校(泊)、古丹消小学校、秩苅別小学校、東沸小学校、作喜小学校、中ノ古丹小学校、瀬石小学校、古釜布小学校、植沖小学校、植内小学校、代々別小学校、乳呑路小学校、礼文磯小学校、白糠泊小学校、その他分校などは、計羅武威に設置
色丹島:色丹小学校、その他分校などは、チボイ、相見崎、切通、能登呂に設置
歯舞群島:多楽小学校、志発小学校、志発西前小学校(志発島)、勇留小学校、水晶小学校、その他分校などは、秋味場(水晶島)、秋勇留に設置

医療

医者が少なかった北方四島。1940年ごろの医者数は合計11名でした。内訳は、択捉島に4名および助産婦2名、国後島に6名、色丹島に1名でした。歯舞群島の住民は根室に行っていたようです。

医療施設も整備されていなかったので、せっかく島外からきても帰ってしまう医師もいたそうです。そんな医師不足に一石を投じたのが、戦時下の日本軍駐留。衛生班が島民の世話もしたため、色丹島や歯舞群島にも診療所ができました。

郵便局

北方四島でももちろん郵便局がありました。全体で23の郵便局が配置されていました。秋勇留島にだけはありませんでしたが、水晶島に1ヶ所、勇留島に1ヶ所、多楽島に1ヶ所、志発島に2ヶ所、色丹島に2ヶ所、国後島に8ヶ所、択捉島に8ヶ所でした。

うち19局(択捉島8ヶ所、国後島6ヶ所)で集配業務行い、色丹郵便局と紗那郵便局は無線電信ができました。根室半島の根室から国後島泊村との間に海底ケーブルが敷設されており、また、国後島アトイヤ岬から択捉島ベルタルベ岬の間にも海底ケーブルが敷設されていました。

各島を結ぶ定期航路で郵送されましたが、冬季は入港できないところがあったので、国後島では古釜布港、択捉島では年萌の両不凍港に月1回ペースで入港して、島内各郵便局がスキーを履いて受け取りに行っていたといわれています。

択捉島:内保郵便局、入里節郵便局、天寧小学校、年萌小学校、留別郵便局、紗那郵便局、別飛郵便局、蘂取郵便局
国後島:国後郵便局(泊)、東沸郵便局、古丹消郵便局、作万別郵便局、古釜布郵便局、植内郵便局、乳呑路郵便局、白糠泊郵便局
色丹島:色丹郵便局、能登呂郵便局
歯舞群島:多楽郵便局、志発郵便局、相泊郵便局(志発)、勇留郵便局、水晶郵便局

海上交通

根室と各島を結ぶ定期航路がありました。国後島、色丹島、歯舞群島は、根室、函館とを結ぶ航路があり、さらに各島間を結ぶ航路が存在しました。オホーツク海側ルートと、太平洋側ルートの2種類に大別できました。

オホーツク海側ルートは、根室~国後島西海岸、根室~国後島東海岸~択捉島西海岸がありました。太平洋側ルートは、根室~歯舞群島~色丹島、根室~国後島東海岸、函館~根室~択捉島東海岸がありました。

これらの定期航路は、1799年に江戸幕府の命令で近藤重蔵高田屋嘉兵衛を水先人として択捉島を訪れた後に開拓されました。国と北海道庁は1891年以降、北海道と北方四島を連絡する命令航路を開始し、流氷の迫る時期を除く4月から12月末まで運航されました。

歯舞群島では月3回、色丹島では月3回(実際には月1回)、択捉島では月2~3回、国後島では2日おきくらいで到着しました。冬季になると、国後島では古釜布港、択捉島では年萌の両不凍港にだけ月1回ペースで入港しました。色丹島では斜古丹港がベースでしたが、入港できない場合はイネモシリに入港しました。

北方四島においては、陸上交通、つまり道路の整備が進まなかったため、海上交通がメジャーでした。各島には以下の港が開設されていました。しかし、天然の入り江などを利用していたので、港湾整備が急がれました。とはいえ、大部分は完成せずに終戦を迎えたようです。

択捉島14港
択捉島留別村:留別港、年萌港、天寧港、具谷港、入里節港、内保港
択捉島紗那村:紗那港、内岡港、紗万部港、別飛港
択捉島蘂取村:蘂取港、茂世路港、年瑠璃港、小田萌港

国後島15港
国後島泊村:泊港、東沸港、キナシリ港、古釜布港、瀬石港、古丹消港、秩苅別港、ニキショロ港
国後島留夜別村:乳呑路港、礼文磯港、白糠泊港、植内港、シベトロ港、ルルイ港、ソコボイ港

色丹島8港
色丹島色丹村:斜古丹港、松ヶ浜港、イネモシリ港、マタコタン港、アナマ港、ノトロ港、キリトウシ港、相見崎港

歯舞群島12港
歯舞群島水晶島:税庫、秋味場港、台場港、モシリケシ港
歯舞群島秋勇留島:税庫
歯舞群島勇留島:税庫、トコマ港
歯舞群島志発島:税庫、相泊港
歯舞群島多楽島:税庫、カカマ港、フルベツ港

道路交通

道路交通は整備がほとんどなされていませんでした。幹線道路と呼ばれていても2m以下の狭い道路ばかりでした。択捉島では、内保から入里節、天寧、年萌で分岐してトシルリに至るルート、年萌から留別、紗那、別飛、蘂取に至るルートがありました。国後島では泊から乳呑路までの約100kmの幹線道路がありました。色丹島では約48kmの幹線道路、歯舞群島では志発島の幹線道路約5kmくらいしかなかったようです。

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