北海道を学ぶ

AirDoヒストリー

 「道民の翼」として誕生した北海道国際航空(エア・ドゥ=AirDo)。第1
便が飛び立って約3年半して経営破綻。経営再建を完了して現在に至って
いますが、その歩みは波乱万丈なものでした。今回は、AirDoの誕生まで
の軌跡を特集。

AirDoヒストリー

高い航空運賃を半額に!を目標に

 ことの発端は、1996年に航空料金自由化の1つとして「幅運賃制度」が
導入されたこと。しかし、結局のところ、大手3社の航空会社が独占して
おり新規参入もできない状況で、自由化は意味ないものでした。依然とし
て、年間利用客820万人の世界一のドル箱路線として知られる羽田~新千
歳間の航空運賃は、往復5万円程度のまま。

 これに腹を立てたのが、AirDo設立の原動力となった浜田氏。実は養鶏
会社の社長でしたが、この件に関して研究会を設立。原点を一儲けするこ
とにではなく「航空運賃の値下げ→北海道経済波及・活性化・自立」に置
き、会社を設立していくことになりました。

 まずは発起人。1996年11月14日、一律50万円29人の出資で会社設立。し
かし、いずれも航空業界については素人の集まりですし、行政も道内経済
界も乗り気ではなかったようで参加していない状況でした。社長ポストは
しばらくの間空席状態が続きました。

エア・ドゥの準備に苦労……

 追い風となるニュースがありました。1997年に、運輸省が国内幹線路線
への新規参入を認めるという規制緩和をしたことです。北海道国際航空と
同時期に、西日本で活躍するスカイマークも新規参入しています(30数年
ぶりの新規参入)。

 コスト削減のため、外部委託を選択しました。空港業務・機材整備等は
日本航空が受け持ち、機材はリースということになりました。問題は羽田
空港の新規参入会社の発着枠配分。当初12枠を主張したものの、最終的に
3往復ということで決まりました。

 社長ポストは、パラオ航空設立などで活躍した中村氏が引き受け、本格
的な準備に入りました。愛称を5000点以上の応募の中から3人が寄せていた
「AirDo」に決定、イメージカラーもイエロー(北の大地の輝き)とブルー
(北海道の空)
の2色で決定しました。

 その後、航空経験者に準備に加わってもらったり、マスコミで取り上げ
られたり、1998年9月にテレビ朝日で放送されたサンデープロジェクトで
取り組みが紹介されて島田紳助さんが応援したり、エア・ドゥクラブ発足
など、様々な力を得て準備が着々と進められました。

 その間には、北海道経済の中核を担ってきた拓銀の破綻もありました。
道内の様々な企業が社員に呼びかけて出資に協力したり、道議会や道内の
半数以上の市町村議会で支援決議をしたほか、個人出資者も多くなり、苦
しい時期を乗り越えてきました。

AirDo就航へ!

 使用機材は採算性を考慮して、座席数の多い288席のボーイング767-300ER
を選定。会社名に国際が入っていることからもわかるように、当初は軌道
にのったら新千歳空港をハブ空港にし国際便を飛ばせるようにという構想
でしたので、そういったことも関係していました。

 しかし、道民と道内中小企業からなる素人集団。知識も経験もない状況
で就航準備は難航しました。そのため、就航予定が3回も遅れました。また
1998年6月にリース機材の1号機がアメリカからやってきたものの、契約後
就航遅れのために月1億円とされるリース料が無駄になりました。

 白熱した運賃論争は、半額運賃にはなりませんでしたが16,000円とし、
シンプル料金体系にすることで決着。大手会社より36%も安い料金でした。
1998年10月26日、事業免許取得。機内サービスや研修を重ね、1998年12月
20日
7:37、羽田空港から第1便が飛び立ちました。無理だと思われた道民
航空が、2年あまりを経て実現したわけです。

続く……(?)

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